「車=子宮」は他者(母と子)融合と異物(車と人間)融合の両方ふくんでるのね

君と歩く世界(17日。丸ピカ)→ザ・マスター(しね)→ヒッチコック→カレ・ブラン(イメージフォーラム)→ハーブ&ドロシー ふたりからの贈り物(19日。写真美術館ホール)→ヒステリア(24日。ヒューマントラストシネマ渋谷)→コズモポリス(武蔵野館)→ホーリーモーターズ(シネマカリテ)→スキャナーズ(武蔵野館)→豊崎×柳下対談「わたしの理想の本棚」(25日。リブロ)→ウォールデン(28日。新宿パークタワー)→シャーリー(6日。パークタワー)→オディロン・ルドン 夢の起源(東郷青児美術館)とみまして、コズモポリスは若くして投資会社の運営で巨万の富を得てる中らしい(直接稼いでる場面がひとつも出てこないので「得た」と断言するのもイマイチ気が引けるというか…)青年が、大統領の遊説関連の警備で街中の道路がアチコチ封鎖されて渋滞がおきてるうえデモ行進でごったがえしてるとゆうのに「なじみの床屋で散髪する」と言い張って自分所有の長いリムジンに乗りこんで強引に目的地へ向かおうとするも…的な話。渋滞と人混みで車から出る事もろくろくできんのですけども、なんか主人公の乗ってるリムジンが異常にデカくて基本的に生理現象(食事・排泄)はひととおり済ませられるし、通信系も充実してるので会社の部下呼びつけて仕事の話できるし、愛人の熟女呼びつけてその場でヤれるし、医者呼びつけて身体検査もできるし(このくだり寝てしまって見れなくて残念すぎるんだがパンフによると「あなたの前立腺は非対称です」とか医者が主人公に診断下したとかで、なんなの?前立腺が対称でないとなんかマズイの?もしかして「片側が発育不全」て意味で?金玉の片方がってことじゃないよな?)と、リムジンの中に居さえすれば何不自由なく暮らせるんですけども、リムジンから出て美人妻と寒々しいランチを共にしたあたりからネズミの死骸持った格差社会デモ人員がなだれこんできたり、秘書(だっけ)や運転手から主人公に対する暗殺計画の噂がほのめかされたり、いつのまにか乗ってたリムジンが落書きで埋めつくされていたりと、だんだんわけのわからん不穏さが増してゆく。その後は主人公が実は投資で手痛い失敗をして後がないこと、それを聞いた新妻がアッサリ別れを切り出し、ファンだったラッパーの訃報が突然もたらされてブラザーの胸のなかで泣いたり、顔面においしいパイぶつけられたり、子供がバスケしてるのボンヤリみてる中に突然ボディガードの頭を銃で撃ち抜いたりと、なんというか主人公、リムジンからでるとろくなことが起こらないふう。とうとうリムジンを帰らせてしまってひとりきりになった主人公は、自分の命を付け狙う輩をみつけだすために銃撃が放たれてくる根城まで踏み込むのだが…ていうのが大まかな流れなんだが、粗筋だけよむとなんとなく面白いふうに思えるんだけどねえ、いかんせんキャラ全員がなんだか原作小説のブンガク的言い回しをまるのまま放っていて、徹頭徹尾それが貫かれてるせいで不自然すぎてどのキャラにもまったく感情移入できないんよ。会話しているようで会話してないっていうかさ。なんだろう、アレってつまり原作者の脳内をそのまま再現してる=鑑賞者と原作者を溶け込ませようとしてるとか…?クローネンバーグ、どうしてこの生硬な手法をとったんだろう…?てずっと考えてたんだけども、融合好きって性癖からしてどうもそういう理由しか思い浮かばないな。みてる側の感情移入の一切を拒んでるとしか思えないんよ。会話がまったく成立していないのに全員がずうっと「話」を続けてるんだよ。目前に特定の人間がちゃんといるのに、各々が勝手に独白しつづけてるみたいなかんじで。心がだれとも通ってないのにクチだけは美辞麗句というか、文学上でいう「いい文章」みたいのを延々とブツブツつぶやき続けてるふうな「会話場面」なんだよ。つくづく不思議な映画だよ。あとこうやって粗筋だけ書き出してみると主人公にとってリムジンが子宮以外のなにものでもない=子宮そのものなんだなーということがよくわかるんだけど、どういうわけか観てる最中そのことにぜんぜん気づけなくて、パンフの柳下さん文よんでようやく気がついた次第。子宮から出るためにはあのボディガードを殺さないとならなかったんだけども、子宮から出て独立独歩してくことが彼にとっては死であるんだよね。子宮外では生きられない、てことなのかな。そういえばコズモポリスで「リムジンは夜どこへいくんだ?」的なセリフを主人公が何回か言うんですが、その後にみたホーリーモーターズもなぜかリムジンがらみ(最後にリムジンばかりの巨大駐車場に主人公が乗ってたリムジンもおさまって、ヒトがいなくなるやリムジン同士で会話しはじめる)で、なんか欧米の映画監督さんたち的には今「リムジンの行き先」が激アツなトレンドなんだろうか。ホーリーモーターズもハッキリとはわからん筋だな…。リムジンで移動しながら何故かいろんな場所である人間の人生の一場面を経験する的な仕事(…なのか?)を請け負ってるふうなおっさんとおばさん運転手の話なんですけども、なんだろうな…リムジンから降りて「仕事中」に銃で撃たれたりしても主人公はなぜか生きてて、さあ次の場所いかなきゃとばかりに変装はぎとってリムジンに乗り込んで移動してく繰り返し。スジのわからん話て集中しづらくて(緊張感の支点をどこへ置いたらいいかわからんので)たびたび寝てしまうんだが、この映画でもたびたび寝てしまってますますよくわからん。なんか…監督さんのツボる場面をただやりたくて繋ぎ合わせた的なことなんだろうか。各々が「何かの話のクライマックス」ぽいシチュエーションなんだよね。しかもけっこう血なまぐさい場面が多くて、主人公のおっさんが殺した相手に自分の着てた服着用させて、自分と同じ髪型にさしたりすんのよ。人相の悪い男ども大勢で地下道ぽいとこ闊歩しながらアコーディオンかき鳴らしつつロックのかっこいい曲弾きまくってたりさ。なんだろ。誰かの人生での転換点を、全部この男がなりかわってしまってる…?そうするとこの男自身の人生てのはどうなってんだろうか。この映画の主人公はずうっとリムジンで移動しているものの、食事をまったくせずにひたすら煙草と酒しかやらないんだよね。彼の身を案じる運転手のおばさんは彼に何度も食事を勧めるのだけど、おっさんは頑として食べようとしないの。コズモポリスの主人公とちがって、ホーリーモーターズの彼は子宮の中で絶望していて生きようとしない。ラストはこじんまりした小さい住宅の家庭のパパ役が「最後の仕事」という方向になってくのだけども、これも他の「仕事」と同様にツラそうなかんじだったな。あの住宅のドアを開ければ「役」らしきふうな表情になるんだろうけども。
スキャナーズは簡単にいうと念力でむかつく奴の頭部をこっぱみじんにすることのできる能力を持つ能力者同士の抗争モノなのだけども、冒頭の研究発表会中にお客さんの目前でドバーンもいいんですけどクローネンバーグの「他者と融合」欲求がそのまま表現されてる芸術作品がでてくるんで、クローネンバーグ好きにとっては基本中の基本なのだろうな。話としては念力が制御できずに普通の生活ができず、ホームレス然としてさまよい歩いてた主人公が念力研究者に見出されてやりとりしてくうちに能力を使いこなせるようになって、残忍な妨害にさらされながらその念力の悪用を目論んでる男と対決する方向になってくアレなんですが、その悪玉の情報を得るためにもうひとりの能力者のもとへ向かうと、その能力者が彫刻だの絵画だのをつくることで念力を抑えてるつーヒトで、そのヒトがつくった立体作品てのがもろにこう…頭部から出た線が他者の頭部に刺さってるふうなのとか、ひとりの人間からでた「何か」がもうひとりの人間を侵蝕してる的なのをそのまんま表現したふうな作品ばっかしで、出来はチャチなんですけどもアレたぶんクローネンバーグ自身が嬉々として1コ1コつくったにちがいないよ。あと「人間と機械との融合」くさいところもちょっぴりでてくるし(主人公がパソコンに念力で意識を侵入させてる中に敵方に気づかれて、突然電源切られたことで主人公の神経のほうもダメージを受ける)。「何かと何かが侵蝕したりされたりその結果グチャグチャに混ざる」が大好きなんだなーとしみじみした。クローネンバーグの欲求があすこまではっきりと可視化されてるもんがみれるってのも貴重だと思う。クローネンバーグ、なんも変わってない。手法がキレーになっただけで。目が大きくて色白な、見た目ちょっと病的なカンジの不安(肉食動物からした草食動物の被虐味というのかな…)感ただよう役者さんを使うとこも変わってない。胎児基準なのかな。
ヒッチコックは監督の持つ陰湿かつ強烈な「女への妄執」によって傑作がつくりだされていた―的なあたりの事情を、ほのぼのとユーモラスに描いてうまく娯楽映画にしてありますね。アンヴィルの監督さんつーことで、エドゲインの亡霊もなんとなくマザコン側面が強調されてそこはかとなくコミカルなふうにみえたな。エドゲインの「母」への妄執と、ヒッチコック監督が周囲の女性たちにひそかに抱いてる妄執―それをはっきりと表すことができないゆえに作品に濃縮される―くだりが並列に混ぜ込まれていて、克つ「奥さんに嫉妬する可愛いおじいちゃん」的な側面をまぶしてうまいこと一般客をドン引きさせないふうにつくってあるかんじだった。エドゲインネタでドン引きさせないってサイコパス好きからすると何を一番美味しいところを削ぎ落としているんだ…と思いがちですが、アンヴィルの監督さんなんでゆるす。なんかこう監督さんに根っから悪意がないかんじがする。男にひそむ「恐ろしいちから」をどこで出さすかってのは大事な問題ですな。それを陰湿や殺伐さをもって描かず、カラッと明るく描いてるってのはある意味貴重やもしらん。ロックの能天気な側面が吉とでた。天然にいい人であって、同時に男のその部分を大事だということがちゃんとわかっていないとできんだろうな。あーあ。キラージョー今すぐみたい。
女への妄執か…。ザ・マスターはパンチドランク・ラブのシリアスバージョンみたいな話だったな。なんか、ラストあたりでけっこう泣いてる女性客がいてエー?!とも思った。シリアスマンと並ぶ物凄いブンガク映画だった気がする。カルト教団ものってことで前作のゼアウィルビーブラッド的にいつごろ教祖を撲殺するのかワクワクドキドキしながらみてたんですけども、なんか…なんか主人公、教祖のフィリップシーモアホフマンに説伏されて邂逅してた…。今回のホフマンの役どころてパンチドランク・ラブの気の荒いおっさんとおなじかんじがする。つーかパンチドランク・ラブのキャラたちが生まれ変わった話な気さえする。パンチドランク・ラブは主人公のアダムサンドラーがイライラすると突然器物を破壊しはじめる暴力キャラだったし、ザ・マスターも主人公のホアキンフェニックスはアル中で暴言・暴力をせずにいられないキャラだしな。ホアキンがなぜそんな荒れ狂ったキャラなのかというと、婚約してた彼女のもとに兵役終えて戻ってきたら彼女が別の男と結婚してたっつーごく単純な理由からそうなってしまったのですが、全編通して「男の抱く女への妄執がこじれるとどうなるか」てのが延々と描かれててなんか凄かった。いったん自分と他者を傷つけ続ける人生を歩みはじめてしまうと、それを正すまでにいかに労力がいるかというのが丁寧に描かれてた。アル中で暴れ回るホアキンがいろんなモノから逃げまわって偶然たどりついた先に教祖のホフマンがいて…という展開で、どういうわけかホフマンが荒れ狂うホアキンを気に入って、信者が止めるのもいとわずホアキンと生涯通して付き合ってくことに。ホフマンがホアキンの暴力癖を正すに際して、侮蔑的な質問にまばたきさせずに答えさせてくってのがあって、葛藤から逃げずに付き合えるようにさすためにやらしてたのかな。ホフマンはカウンセラーとしては優秀ぽいんだけども、著作とか団体内教義についてはかなりいい加減らしくて、まあ山師半分・学者半分みたいな「経営者としてバランスのいい」ヒトなんだろね。オチはホアキンがてきとうな女性みつけておさまってメデタシ、つーものすごーくフツーの結末なんだけども、なんだろうなー。つまりこれは「男」を描いてるのかな。大まかなスジとしては王道中の王道(行きて帰りし物語)なんだけども、その途中の経過部分がいろいろありすぎてすごく複雑にみえる。大筋では王道なつくりなはずなのに、ありきたりの起承転結では説明しきれないかんじ。荒れ狂う男の脆い部分、うまくやってる部分、複雑なんだけど結局単純、ということをベタに描きすぎていて逆にわからないというか。その外側で眺めてる女は常に冷酷で計算高い。この監督いまんとこハズレがねーな。凄腕だな。
カレ・ブランは死者の人肉が食用として普通に流通している社会で、それに疑問を抱いた者が(その仕組みを変えられないことから)絶望に囚われて自殺してくことにすら疑問を抱くことなく暮らしていた者たちが、すこしずつそれがおかしい、ということに気づきはじめると同時に常日頃から世間では平然と非道が横行しているということを段々と自覚してゆくありさまを暗くしずんだビジュアルで描いた映画。あの全編にわたって暗すぎるビジュアルがちょっとやりすぎというか、そういう世界観を画面の暗さによって演出しようとする意図がみえすぎてちょっとだけ白々しくはあるんだけども、人肉食の流通をまったく疑問に思わない人々の奇異さをあらわすにはまあちょうどいいのやもしらん。自殺者がでるや淡々と収集人があらわれて屠殺場的なとこへ運ばれてったりすんの。んで基本的にこの世界では「生殖行為」が推奨されていて、街に設置されたスピーカーからは常に生殖行為の素晴らしさを説くプロパガンダ的な音声がエンドレスで流れてんのね。まあつまりそれは食料のためではあるんだろうが、とすると「自殺の禁止」は建前に過ぎないということなんだろうか。それとも自殺者が多すぎて食料供給が追いついてないんだろうか。はっきりと状況も筋も描かれないんでよくわからん。しかし人肉がすぎると狂牛病みたいな共食いに際して発生する病気が出やすくなって、ゆくゆくは滅ぶ方向になると思うんだがな。そういえば大昔の人身御供の風習があった地域に伝わるという「脳みそをくうと頭がよくなる説」てのはどこかで検証されたりしないんだろうか。しないか。しかしあの主人公が勤めてる会社というのは心理実験みたいなのを施して被験者が死ぬまで脅したりしてたけど、あの会社はてっきり食料供給会社かなんかで意図的に自殺に追い込むレベルの嫌がらせムチャ振り(現日本で横行してる「断るための」入社面接と同レベルだよねアレ)ばかりしてんのかなとか思ったんだが、そういうわけじゃないのね。この暗〜い社会映画の結末としては、管理社会モノでおなじみの「監視外でこっそり発生しているひずみ」によって打開してくかな…?的なそこはかとないオチが用意されてはいるんですけども、なにしろ徹頭徹尾たいへん暗いです。イシグロ映画のクローンたちと同じく、家畜として育てられると「権力者から与えられた逃走神話」をまるのまま信じ込んでしまうし、まず疑問を抱くことができないんだな。自殺の多い国では「自分や他人を大切にする」がどういうことなのかを具体的にはわかっていない人だらけなのかもしれない。映画としては低予算ぽいつくりなあたりこれにちょっと似てるかんじではある。あと、スーツ男たちがなんの疑問もなく同僚を暴行するあたりのビジュアルからしてなんとなくこれ思い出した。
君と歩く世界は自分の体の一部や肉親を失ってはじめて「心を大切にする」のがどういうことであるのかを知るに至る男女の話。女性のほうは露出度の高い服着て盛り場に繰り出しては体目当てで近づいてきた男とてきとうに付き合ったりする場当たり的な生活をおくってたんですが、シャチ回しの仕事中にシャチに喰われて両足なくしたことが原因で生きる気力もなく長い事ふさぎこんでた際に、ふと呼んでみた大柄な男(闇を生きる男の主演俳優さん!)の我が道をゆく的な接し方が功を奏してまた以前のように水と関わることがだんだん出来るようになってゆく。この大柄な男はべつに悪い男ではないんですけども、人を大切にするという意味をあんまりわかってなくて、シャチ回し女性に呼ばれればなんの抵抗もなく抱きかかえてサクサク海にいったりセックスしたりするんですけど(肉体欠損への偏見がまったくない)、いざ恋人として付き合うとなると逢引中に突然セフレのとこへ行ってしまったり、もちかけられた犯罪行為にお金ほしさで気軽に加担してしまったりすんですね。その結果、自分の加担した犯罪が原因で住んでたとこを追われて挙げ句息子を置き去りにして格闘技の鍛錬に遠出してしまったりして、なんというか失敗を犯したときに向き合えずに逃げ出すくりかえしで暮らしてきたもんで「責任を負う=相手を大事にする」ことがどういうことであるのかをいつまでも理解しないままでいるわけですな。んで何カ月か経って、あるとき置き去りにしてきた息子が主人公のもとにきて、主人公が息子と遊んでいるときにある事故が起きて息子が虫の息になってしまうんですね。そこではじめて主人公の大柄な男はこれまでにないほど混乱してしまって、電話してきた元彼女ーシャチ回しの女性にすがりつくわけです。女性が電話を切ろうとすると、切らないでくれと懇願しながら泣く男。人が心配してくれる、そばにいてくれる、誠実に接してくれる、それがどれだけ大切な事なのか、自分が本当に傷つかないと気づけなかった。そういう男女の話。
ヒステリアはバーク&ヘアと並ぶ史実コメディの佳作だった。女性の不平不満が全部「ヒステリー」として大真面目に病気とされて片付けられてた200年位前のイギリスで、出どころ不明の迷信的医療に異を唱えて診療所をお払い箱になった主人公の青年が、女性の「ヒステリー治療」のための診療所に職を得て以来患者女性のまんこをいじくって絶頂さす「治療」をくりかえすうちにいじくりすぎで腱鞘炎になってしまって、仕事ができずに悩んでたとこに発明家のダチがつくってた電動掃除機をみてコレだー!!とばかりに電マに改造してウハウハになって、診療所の先生の娘さんで福祉に全人生を投入しているほうのヒトに儲けたお金を注ぎ込んで結婚する話。女性の快楽と自立がうまいこと絡められててふつうに面白い映画。最初主人公は先生の娘さんのうち妹のほうと結婚しようとしてたんですけど、この妹さんはべつに頭が悪いわけではないんだが当時は科学とされていた「骨相」(骨の形で性質を判断)を大真面目に研究してるヒトなうえ、女性や子供の教育に全人生を注いでるお姉さんをお父さんといっしょになって軽蔑してたりして、なんかまあ…主人公が真に求めてるもんとは微妙にちがうわけです。なんかさー男尊女卑の頃て夫婦に子供ができないと無条件で「妻が悪い」とかされる傾向があったんだっけ。それと同じふうにこの時のイギリスでも「女には性欲がない」とかいう出どころ不明の迷信的通説がどういうわけかまかりとおっていて、旦那側のセックスが下手かどうかは完全に隠されるふうな風潮だったんですな。男のほうの不備にはいっさい目を向けさせないようにさせてたんだね。ヒステリアのパンフにでてる瀧波ユカリさんの『男を喜ばせようと子犬みたいに可愛くあえいじゃう日本のオンナノコの解放が、ここから始まりますように。』とのコメントは完全に同意。他の国のおんなのあえぎ声がどんなもんなのか集めた映像みたいのがあればみんな学ぶのでは。演技のない性交時の自然なあえぎ声てどんなんですかね。たぶんふというんこだすときのと似てるはずです。ところでヒステリアで医者が迷信的治療方法に固執してるくだりからして「今が技術の最先端で最高峰」とか思いこむとそこに安住しすぎるあまりにそれ以上追求しなくなりがちっぽいので、いまはまだ途上と常に思っとく位がちょうどいいのかなーとも思った。
ハーブ&ドロシー続編はヴォーゲル夫妻がすこしずつ買い集めて狭いアパートに詰め込んでた現代美術作品を美術館に寄贈するに際して、あまりに膨大すぎて1つの美術館ではおさまりきらないので、アメリカのいろんな美術館にちょっとずつ送ることになった顛末と各美術館で展示されるまでの顛末を追ったドキュメンタリー。旦那のハーバートさんは去年あたりにもう死んでたんだな。映画時にもう車椅子だったししょうがないか。その車椅子時の映像ではやたらにドロシー奥さんばかりが話してる場面が多かったんだが、ハーバートさん病気とかでしゃべれないとかなのか…?とか思ったんだけど別にそういうわけでもなさそうだったな。奥さんが説明しちゃうほうが早いとかでそうなっちゃったんだろうか。もうちとハーバートさんがしゃべるとこが見たかった気も。ヴォーゲル夫妻のコレクションが各地に散ることで、それまであまり知られてなかった美術家に光があたるってのは凄い事だなーと思った。あるヒトの好みに沿って収集するってのはそれだけで批評なんだよな。そのヒト固有の視点で貫かれてるからさ。それがのちに評価されるかどうかはまた別なんだけども。やっぱり基本的な知識とかはいるんだよな。何にどう沿うか、みたいなところで。ヴォーゲル夫妻のアパートの壁に唯一のこったハーバートさんの絵があったけども、あれはどこかで展示されないんすかね。客集めづらいか?わしは観たいけど。
ウォールデンはイグジット・スルー・ザ・ギフトショップで古着屋さんがバンクシーに送りつけた早送りブレブレなクソ映像feat.ホームビデオという「他人にとっては退屈の極み」コンボ構成なので、つまらなくないわけがありません。たしかチラシに「アーチストたちがたくさん出て云々」的なことが書いてあってそれに釣られたんですが、なんかねえ、ホームビデオのブレブレなところだけを延々つなぎあわせてあるだけ(音声は別の雑音のようなもんが長々とアテてある)なんで、映ってるもんがたとえジョンレノンレベルの有名人でも興味をもって観賞することができないのですよ。みるうえでの苦痛要素が多すぎて。あれ、映像がブレてなくて克つ各々の場面ごとにふつうに会話が録音されてればそれなりに面白い気がすんですけど、わざと興味もてないふうに、つまらんふうに撮ったんすなぁ。なんだかやたら長かったんでいろんなかっこしながら寝てたせいか、終わったあとにうしろにいたおにいさんに睨みつけられた。襟正してみてるような作品か?アレ。
 

豊崎×柳下の件とルドンは別立てでいくかな。