一角獣て麒麟とはちがうんだろうか

バレット(12日。新ピカ)→イノセントガーデン(シネマカリテ)→コレクター(新宿ミラノ)→アンチヴァイラル(シネマライズ)→輪郭 黒坂圭太トークライブ(14日。アップリンク)→三姉妹〜雲南の子(19日。イメージフォーラム)→パパの木(シネスイッチ)→貴婦人と一角獣(20日国立新美術館)→プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ 宿命(ヒューマントラストシネマ有楽町)→竹谷隆之の仕事展(アーツ千代田3331)とみまして、貴婦人と一角獣はとりあえず観賞して気になった箇所を以下に並べてみます。
・女性の両脇に座る獅子と一角獣は全体を通して中央の女性を熱心に見つめている図が多いものの、「視覚」では獅子は左手の画面外を見ており(女性から目を逸らしている)、「触覚」の獅子と「味覚」の一角獣については鑑賞者のほうをじっと見ている。各キャラクタの視線の方向が意味することは?
・背景と足元の草花の合間に描かれたもので、特に「視覚」「聴覚」ではうさぎがキツネや犬にじっとみつめられているふうな箇所がある
・「触覚」で獅子と一角獣がベルトで身につけている盾はそれぞれ流線型デザイン(盾表面の三日月印と同じ大きさの穴がついている)だが、「嗅覚」では獅子の盾だけが直線的なデザインの盾に変わっている
・「触覚」「嗅覚」で獅子と一角獣が身につけていた盾は、「味覚」ではマントに変わっている。盾→マントに変わることの意味?
・獅子と一角獣が支え持つ棒の先についている旗はなびいているが、その旗をなびかせる風はどちらから吹いているか?
・「触覚」「視覚」では旗付き棒が1本のみ。「聴覚」「嗅覚」「味覚」「我が唯一の望みに」は各2本
 長方形の旗もつ役…「嗅覚」「味覚」「我が唯一の望みに」→一角獣
          「聴覚」「視覚」→ 獅子
          「触覚」→ 中央の女性
二股の横長旗もつ役…「聴覚」→ 一角獣
          「嗅覚」「味覚」「我が唯一の望みに」→獅子
・旗の立つ位置と木の種類の関係?
・マツ(上)―オレンジ(下)列…「聴覚」右手、「触覚」左手
・マツ(上)―フユナラ(下)列…「味覚」右手、「我が唯一の望みに」左手
・木4種がある図のうち、高く伸びた2本の木の根元にはスミレの花が必ず咲いている
・マツの木は高木のみで、低木になっている図はない
・獅子と一角獣の尻尾が上に向いているときとそうでない時がある
・獅子と一角獣は座っているが、「味覚」では立ちあがっている
・「味覚」「我が唯一の望みに」で獅子がクチを開けて赤い舌をみせている
・「聴覚」のオルガン両脇の先端にそれぞれ獅子と一角獣の小さな人形が付いている
・「視覚」で女性の持つ手鏡に映ってるユニコーン、実物よりもたてがみが少なくて若いふうにみえるんだが。手鏡を持つ女性は他の図よりも顔つきが老いてるようにみえる
・「味覚」「我が唯一の望みに」の2図にだけ小型犬がいる
・「視覚」で一角獣が女性をみつめながらまくりあげているドレスの下からみえている布の柄、「聴覚」「嗅覚」「味覚」「我が唯一の望みに」に出てくる侍女ぽいヒトの着てるドレスの柄と同じ柄。(色はちがう)
目立つ箇所挙げると大方こんなですが、木々の位置・旗の位置(含なびく方向)・獣たちの位置がそれぞれ入れ替わってる点からして「ものすごく広い庭で位置替えながら描いた」前提で、その移り変わりによって中央女性(もしくはこの図が表す貴族)の人生に於ける栄枯盛衰を端的にぐるぐるあらわしてるふうなもんなのかなーと思いながら観賞してたんですけど、そのわりには同じ要素で共通させてるようで共通してなさすぎるし、もしかしていきあたりばったりでつくっただけなのかなあとも思う(そうだとすると上記の疑問がなんも意味ねーことになる)。それにしちゃこうまで細かく綺麗につくれる技術もったヒトが精魂込めてなんも考えずにあんなもんつくったりするかなあとも思うし。西洋の昔の超絶技法の画家って大抵描くもんにこまごまと意味をぶちこむものなんだよね。なにしろよくわからんとしか。順番もわからんのだよね。必ずしも「我が唯一の望みに」が最後にくるとは限らないし。図の順に関して言えば旗の棒が立つ位置の移り変わり具合とか、あと一角獣の角の先っぽが指している箇所とか、出してくとキリないんだがそこまでは勘ぐり過ぎだろうか。6つの独立した庭が個別にあるのか、それとも1つの庭をあらゆる方向からみながら(それだと凄い広大な庭てことになる)なのか、それもわからん。密教的な観点からすると「青・赤・白」は「過去・現在・未来」てことらしいので、女性のドレスが青→赤に変遷していると考えればまあ自然ではあるけど、そうなると白のドレスが未来=老いを表してるのかってことになるか?わからん。それともそういうのなんも考えずに「子宮図」とかみなすこともできなくもないような。考えだすとキリないのでまあ単純に絢爛さをたんのうしにいくが吉です。
輪郭はDIR EN GREYつーバンドの新曲に合わせてつくった黒坂さんの鉛筆アニメの新作お披露目会的なイベントで、しょっぱなに何故か黒坂さんが映像業界デビューしたてのころにつくったという光の明滅を解き放った場所で轟音と共に蠢く小石の群れ+嘔吐→海へと延々つづく朽ちかけた板張り通路、といった実験映像じみた作品(変形作品第4番〈壁画〉)をじっくりみせられたんですが、なんでコレみる必要があんのかなーと思いつつ新作みてみたら内容がだいたい同じで、黒坂さん原点にもどってきたんだなーとしみじみした。新作である輪郭映像はバンドのメンツの肖像画がドロドロに溶け出して、その溶けたブツが煮えたぎるように生まれたり潰れたりしつつ混ざりあいながらも進んでゆく、というカンジの6分ほどのアニメなんですけども、ちょっと見エグいですけどバンドのファンからは概ね好評だったそうで、前作(Agitated Screams of Maggots)の映像作品時のような抗議のたぐいはぜんぜんなかったらしい。わしはMaggotsの容赦なさがこのみですけどね。Maggotsのほうは放映するとなるとモザイクをいっぱいかけなきゃならんらしいんですが(イベント時にみたのはちゃんとモザイク無しの完全版だった)、特定の描写に耐えられない視聴者によって作家が自作を変更させられるってのは作家の個性を踏みにじってるとしか思えん。普通に考えて「あなたの個性は嫌いだから私が嫌悪を感じないようなものに替えてくれる?」て要求自体が傲慢の極みだと思うんだが。みたくないもんが流れたならテレビのチャンネルを変えれば済むことなのに、それじゃ飽き足らず作家の個性を潰させるを優先するてどういうことなんよ。個性が大事とかいいながらいざ個性だされて不快だったときに消し去るのを当然とか思ってるくせして文化が大事とかどのクチがいうかねえ。「真実を直視させない」体制は他者に向き合えない意気地なしを量産するだけだと思うけどねえ。なにしろ黒坂アニメはモザイクなし完全版こそ至上だなあと思った次第(大体さー人間トシくって体が動かなくなったら他人に下の世話させないと生きられなくなるってのに、排泄や死の描写ニガテだのなんだの言ってらんねえだろうよ。誰であれ早いうち慣れとくにこしたこたないだろ)。それと最後の質問コーナーで、ずっと疑問に思ってた「足で踏みつぶす描写」へのこだわりについて直接黒坂さんに聞けたのがすごくよかった。なんか、黒坂さんが幼稚園くらいのときに幼虫が足で踏みつぶされるのを直視したのと、友達が電車に轢かれたのを間近でみてしまった際の経験がもとになっているということで、基本的に「何かが潰れた」ときに噴出する死と生命が混濁した状態のビジュアルが強烈に刺さったままなのだとか。いまだにずっと刺さりつづけていて、そこらへんの衝動はほっとくとずんずん溜まってきてしまうので、鉛筆アニメ等で定期的に放出してかないとたいへんなんだそう。いまつくってるとゆう黒坂アニメ次回作はどうやらそこらへんの欲求に忠実につくられてるモノだそうで超アガる。しかし黒坂イベント、赤塚さんが進行役やるやつだと一段と濃厚なアレになるんだけどなーと多少残念に思ってたですけど、今回のは2度目で前回イベントが赤塚さんのだったんすね。黒坂イベントやるDMとかもらえるとたすかるんですがね。手間かかるか。
三姉妹は中国の雲南省の高地で暮らす4歳・6歳・10歳の姉妹のくらしっぷりを淡々と撮り収めたドキュメンタリーで、石造り(もしかして石じゃなく家畜の糞を固めたとかなのかな?)の家のなかの、泥で汚れた床に置いてある石に座って食事をするあたりからして「家畜小屋とさして変わらない場所でギリギリ人間らしい生活をしてる子供たち」感がみなぎっています。なんか…お母さんは出て行っちゃって、お父さんは稼ぐために町へ出稼ぎにでてるとかで、幼い3人きりで生活してるんすよ。近所におじいちゃんとか親戚さんがいるんで羊追ったりする仕事をするかわりにご飯食べさせてもらったりはしてるんですけども、基本的にもうなんか…すべてを10歳のおねえちゃんが生活のすべてをこなしてるんですよ。食事といったらジャガイモきりないふうでしたけど、栄養失調になってないんだろうか。それと水が貴重なのかな。お風呂は入れてない(つーか風呂自体がないのか)から肌は泥や煤で汚れ放題なまんま(数年モノ)だし、服も洗濯してないらしくて汚れてシラミまみれ(おねえちゃんが妹のシラミをつぶすプチプチいう音がちゃんと収録されてた…)でもずうっと着たままだし、靴が大事なのに穴の開いた長靴に妹がつめこんだ泥がカチカチんなって出てこなくなっちゃうし、足に怪我したら唾つけた紙を貼付けとくしかなくてなかなか治らないし、このことをアグネスチャンはやっぱり何も知らないんだろうなと思わずにいれませんでした。あの人は先進国でカネ稼ぎすることしか頭になくて、出身国の貧しい子たちのことなんて興味がないんでしょうね。日本でエロ漫画弾圧を叫ぶよりも雲南の子の支援にいったほうがよっぽど世のため人の為になる気がしますが。三姉妹にもどしますが、出稼ぎにいったまま数年もどってこなかったお父さんが帰ってきて、懐事情によっておねえちゃん以外の姉妹2人がお父さんと町へいって暮らすことになるんですけども、のこったおねえちゃんはそれまでどうりに労働しつづける。ひとりきりで寂しくないのかなと思ったんですけど、おじいちゃんはいるし一応学校に通ってるし、近所の同じくらい貧しい少年と馬のうんこ拾い労働をいっしょにやったりして、そこらへんはなんとかなってるぽかったのが微妙に救い。羊追わせるためかなんかで飼ってる犬が優しい気質らしくて可愛いかったな。いつもシッポふってたし。牧羊犬がわりなはずなのに羊にビビらされてたりして気弱ぽい子みたいだった。そんな過酷生活のなかで突然もたらされるピカピカの新品の靴や服はなんだか異世界のモノのようにみえてしまう。あの暮らしのなかでは「汚れていない」てだけでものすごく特別のモノにみえる。新品モノの特別感と合わせてすごかったのはたまのお祝いで並べられた御馳走のおいしそう感もすごかったな。パンフには収穫を祝う宴だと書いてありますけど、なんかおじいちゃんちに親戚がたくさん集まりはじめて、家畜をつぶしてつくった料理が次々と並べられてくですよ。貧しさ・ひもじさ・汚濁・過酷労働という赤貧描写がこれでもかと続いたのちのごちそうが並べられてくビジュアルの輝きときたら!これですよコレ!昔からある童話や昔話に必須なこの「おなかへった→たっぷりおいしい」落差による生理感覚訴求描写ですよー!!これがいちばん大事なんよ。めでたしめでたし=満腹になるってことなんすよ。それこそが「感じさせる」ことの基本中の基本なんよ。五感に訴えかけることで心を動かすのよ。それこそが創作物の醍醐味なの。わかったかドバーン。あの生理感覚に直接くるひもじい落差後のごちそう描写によって観賞後におむすび屋に駆け込んで豚汁すすらずにいれなかったじゃないですか。ワンビンめ!!そういえば三姉妹について書き忘れてましたが、なんか貧しい区域(特に東南アジアの国あたり)のお宅で食事をつくる&たべる際にお皿を地べたや床に置いたまましゃがんだり背中をちぢこめて食べてる光景をテレビなんかでけっこうみる気がすんですけど、机やテーブルでたべるって発想はまったくでてこないんだろうか。あんなお腹折り曲げてたべるの苦しくないか。テーブルつくるのってお金かかってムリなんだろうか。木でなくとも石でもなんでもいいからさ。机やテーブルてのもわりと一部文化なのやもしらん。というわけでテーブル美術作品展たのみますね>もり江。
アンチヴァイラルは有名人のかかった病気の菌を金払ってでも注入されたいマニアがけっこういるうえ、そういう病んだマニア向けに有名人菌を売っぱらって大儲けしてる企業がある世界での話。主人公はそこの企業の勤め人で、新種の有名人菌がでるや自分の体にこっそり注入して外部の闇ブローカーに売っぱらったりしてるせいで常に具合悪い状態なんですが、主人公が以前からファンだった有名女優アンナガイストさんのかかった新種の病原菌採取仕事を命じられたのをいいことにイキオイ自分にもガイスト菌注入した直後から奇妙な出来事が立て続けに起き始めて…的なスジ。後半の話がよくわからんのですけど、要するにライバル企業に新ガイスト菌採取目的で主人公が狙われてて、そのライバル企業とは別?なのかわからんけど主人公がガイストさんマニアに拉致監禁されたうえ「ガイストマニアを納得さすためにお前の病気の経過を観察する」てことにされて、ガイストさんの拡大写真で囲まれた真っ白い部屋で主人公の病気がだんだんと進行してくことになるんですが、主人公がなんとか逃げ出してから結局ライバル社と手を結ぶんだっけ?それともあの最後におさまったとこは主人公がもといた会社なのか?展開がいまいちよくわからん。ぜんたい現代美術くさい難解さが漂う雰囲気の画ヅラだったな。クローネンバーグ父の映画だとわかりやすい臓物感覚がエロティックさやスプラッタ描写でドブドブでるんで話の前後が多少わからずとも万人に突き刺さりやすいんですけども、クローネンバーグ息子の作品傾向は娯楽よりも「小難しい設定をきちんとやる」が先行しすぎでわかりづらいのが玉にキズな気がする。「わかりやすさ」とか「楽しませる」よりも頭のいいお坊ちゃんの優秀さがでちゃった的な。話こねくりすぎて観客が置いてけぼりつーかさ。クローネンバーグ父の映画て「背中の穴でつなげて異世界遊び」とかちょっとやってみたいなと思う設定のがわりとあるんですけども、「病気伝染させられる」てちょっともやってみたいと思えないんよね。お父さん作品のほうには多少なりとも共感できる部分があるのに、息子さん作品には共感できる箇所がなにもないつーか。こっちの生理感覚にイマイチ響いてこないもんだからなんか…現代美術くさい他人ごと感覚が強いというか。息子さん作品て、現実世界と接点がありそうで全然ないんよ。お父さんの作劇法(他者との融合)をものすごい意識してつくっちゃって、そのわりに肝心なモノが抜けてる(観客との生理感覚の共有)もんだから設定だけポッカリ浮かんだふうな空虚なもんしかできなかったつーかね…。病気になりたい、てのは生への欲求に反すること(死)であって、マニアの精神状態である「なにか特定のモノに淫していたい(=そのためには生き続ける必要がある)」と真逆の精神傾向なんすよ。相反する心が同居する人間みて共感しろといわれてもちょっとムリなんすよね。あのアンチヴァイラル世界のヒトたちがどういう心理なのか観てるコッチはまったくわからないから、理解不能異世界にしかみえないのよ。客としてはただヘンな生体の生き物をポカーンと眺めてるふうになってしまう。感情移入できないから話にも興味がもてんのよ。理解不能異世界だから何が起きても不思議じゃないなと思えてしまって。いろいろカキましたけど、なんていうか色合いの対比を過剰に意識した現代美術くさいビジュアル箇所はすごくよかったと思う。特に有名人菌を拡大した映像でモニタに映ってる、歪んだ奇形児の顔が細かに震えてるふうなのとか、あとなぜか新種菌かかった際に真っ赤な血を大量に吐くところとか、それとラストで一瞬だけ映る病気が進行したガイストさんの肉体が変形してるとことか、そういうビジュアルはよかった。でも徹頭徹尾共感できないのでスジ追うのがなんか大変で、娯楽とはかけ離れてる。そういう意味で芸術映画。お父さんのは娯楽映画。 
松の木のむこう側は殺した男の息子と殺された男の息子が出会ってしまったことから社会的成功を勝ち取った男に殺しの過去が突きつけられる因縁話。映画なんかで因果応報構造をみせられると単なる創作話だとみなされがちかと思うんですけど、実際にわりとあるくさいのが怖い。話としては元カノ(エヴァメンデス)が自分の子を生んだことを知った命知らずのバイク曲芸師ゴズリングが、養ってやるよといわんばかりに得意のバイクで銀行強盗しまくってつくったお金をむりやりエヴァメンデスに握らせてたんですけど、この男ダメだとばかりにメンデスは既に誠実な彼氏をつくっていて(結婚済なんだっけ)、にも関わらず知らねえよとばかりに強奪したお金を握らせ続けるわメンデスの新カレを腹立ちまぎれに暴行するわとやりたい放題してたんすけど、ある強盗仕事後のバイク逃亡で下手打って追い詰められた新米警官にゴズリングは銃で撃たれて死んでしまう。そのゴズリングを射殺した新米警官てのがなんか政治家を父にもつエリート出の青年(ブラッドリークーパー)で、ゴズリングを追い詰めた際にゴズリング本人は閉じこもった部屋のなかでひたすらメンデスに別れの電話をしている最中で、本来的に警察官は「警告後の突入」が鉄則らしいんですが新米でブルッてたであろうクーパーは警告もせずにいきなりドア開けてなんもいわずにゴズリングに弾丸撃ち込みつづけてしまう。この時点でおそらくクーパーは罪に問われないといかんはずなんですけども、なにぶん目撃者はクーパーひとりなうえ当のクーパー自身もそのテの違反はしてないの一点張りだし、おそらく家柄なんかも考慮されたせいか表彰されて英雄扱いになっちまうんですね。なんとなく納得いかんまま自宅療養してると、レイリオッタ(家んなか入れちゃダメー!!と反射的に思いました)率いる同僚たちがドヤドヤやってきて、景気付けにと誘い出した負傷者のクーパー引き連れてエヴァメンデス家にてきとうな理由つけて踏み込んでくんですね。メンデスが強盗繰り返してたゴズリングと深い仲だったということで強奪した金目当てにきたわけです。捜索するうちにある箇所からでてきてしまって山分けしたのを無理やりクーパーにも押し付けられる。そのほかにも異動した部署の関係で「情報屋の報酬で必要だから押収品からコカインくすねてきてくれ」とか頼まれたりして、警察内部の腐敗っぷりをイヤというほど見せつけられたクーパーは意を決して署長に汚職の証拠をつきつけてレイリオッタたちをお縄にするよう迫るんすけど、当然内部の不手際を公表なんてしたくない署長はレイリオッタにクーパーを痛めつけて口封じするよう頼んでいたのでしょう、突然レイリオッタによって森の奥に連れ込まれかかったクーパーはビビって逃げ出したのち、政治家の父ちゃんからアレコレ教わって、結果的に警察汚職を交渉の道具にしてのしあがることを選択する。数年後、検事として成功者となったクーパーは仕事が忙しすぎるあまりに高校生の息子にかまってやれず、それが原因でクーパーの息子は半グレしかかっている。クーパーの息子はそれまで離婚した奥さんのもとにいたんですけども、いいかげん父であるクーパーのもとで暮らしたいということになって、クーパー屋敷で暮らすようになるんですけども、そこはエヴァメンデス家がある地域なんですね。当然ゴズリングの息子も同い年になっていて、クーパー息子と同じ高校に通うことに。お互いに友人いない同士でなんとなく意気投合した2人なものの、おもにクーパー息子が原因でゴズリング息子も逮捕されてしまう事態が増えていく。メンデス母さんから自分の本当の父についてなにも知らされてないゴズリング息子は、思い立って自分の父について調べてくうちにけっこうな犯罪者だったこと、本名や顔写真、当時の知人なんかもわかってくる。そんなときにゴズリング息子がクーパー屋敷でクーパー息子が開催していたパーティに赴いてみると、なぜか自分の父を射殺した警官の写真が壁にかかっていることに気づいてしまう…。んで思いあまったゴズリング息子が銃つきつけてクーパー当人と息子に詰め寄ってしまうんですけども、クーパー当人が彼(射殺した男の息子)に対してどんな思いを抱いて生きてきたかを知った瞬間に彼は新たな道を歩みはじめるんですね。その後、クーパー親子も自分たちに起きたことについて、真実は公表しない。いいケジメのつけかただなと思った。ぜんたい「真実を公表しない」ことがこの物語のキャラクタの人生の転換点になっていて、真実だからといってなんでもかんでも出せばいいとは限らない、という真理がみなぎっていた。黙殺や嘘も使いようでどうとでもなるというか。ところでこの映画にでてる俳優さんはどのヒトもスキですけど、特に高校生になったゴズリング息子さん役のデイン・デハーンさんはいいツラがまえしてますなぁ。自分の出どころがわからない不安感からやさぐれて孤独に陥ってる青年の鋭い目ツキとかがすごく役どころにピッタシでよかったです。あとろくでなしのゴズリングに死んだあとまでエヴァメンデスが延々と振り回されすぎて疲弊してトシとってく光景がすごく悲壮感漂ってた。
『本作の基になったのは、その犯行動機の異常さや残忍さで世界中を慄然とさせたシリアルキラー、ゲイリー・ハイドニックの事件だ。ハイドニックは1986年から1987年の5ヶ月にわたり、フィラデルフィア市内のスラムにある自宅地下室(「羊たちの沈黙」で連続殺人犯バッファロービルが被害者を穴に押し込むシーンはこれがモデル)に6人の娼婦を監禁。レイプ・暴行・虐待を加え、2人を殺害した。まず客引きをする娼婦に近づき、声をかけて自宅につれこみ、ベッドで過したのち、首を絞めて地下室に放り込む。そして異常な計画を練った。「ここに何人もの女たちを閉じ込めて、俺の子供を生ませ、大家族を作るんだ」。ハイドニックに従順だった最初の被害者は、やがて彼の信頼を勝ちえ、1階のキッチンで食事をしたり、同伴で外出も許されたが、反抗的な者は殺され解体されて、その肉はドッグフードに混ぜられ、女たちの夕食に出されたという。心を許していた最初の被害者が隙をみて警察に通報、ハイドニックは逮捕され、99年に薬物注射による死刑が執行された。55歳だった。
 犯罪史上稀にみる猟奇事件を起こしたゲイリー・ハイドニックは父親と仲が悪く、母親はアル中で死亡、弟は自殺という家庭だったので、家族への執着があった。陸軍を精神病で退役し、准看護師の資格を取っている。結婚、離婚を4回繰り返し、その間に4人の子供をもうけたが、全員母親側に引き取られている。IQ148という優秀な頭脳の持ち主で利殖に長けていて、株投資で500万ドル以上の財産を持っていた。キャデラックとロールスロイスを乗り回しながら、税金逃れのために聖職者統一教会を設立して、そこの主教におさまっていた。その風貌は冴えなく青みがかったグレーの眼は狂気じみていた。精神病院に21回入退院、自殺未遂を12回繰り返している。』
上記『』内はコレクターのパンフより抜粋したモノですが、ほかにも実際に起きた妊婦がらみの凄惨事件が列挙してあったりしてなにげにちゃんとつくってあるなー。ついこの前もありましたけど、サイコパスみたいに自分の快楽のために殺したい、てんならまだわかるけど、このテの拉致監禁したうえ赤ん坊まで生ませる事件てのは家族や子供に対する執着に根ざしてるだけにタチが悪いですな。それほど身近に愛する者がいる状態を強烈に求めてるんですね。そんなに家族がほしいならよい父親になれるように努力したらいいのではないかと思うけど、それはヤであくまで自分はわがまま放題に振る舞いたい+でも家族はそばにいてほしい、ていう欲求を実現させたい方向なのな。他人のせいにばかりしてると成る程ろくでもないことにしかならんとは思うものの、上記抜粋したハイドニックさんは高いIQに加えて精神疾患くさいのでそこらへんはどうしたらいいんだろうね。頭がいいだけに先回りしてどうかしようと思ってたんだろうけど、まず相手の気持ちを考えてみるところからはじめない限りはいかな努力もなんの意味もない気がしますけどね…。肝心の作品ですが、長年追ってた娼婦殺人鬼がまたやりはじめたところで主人公刑事の娘まで拉致されて―的な話で、フタあけてみたら男よりも女が諸悪の根源だった的などんでんがえしがございます。キチガイの片棒を異性が担ぎだしたらかなりやばい。女は本気になると冷徹にコトを遂行しますしね。おんなっておそろしい。ところでコレクターでは娼婦ばかりが狙われてるってくだりで「悲しむ人がだれもいない者ばかり」てセリフがあった気がすんですけど、ウォルターヒルのバレットでもスタローンが「誰も悲しむ者がいない連中が、殺されただけだ」て言い放つ箇所があって、はみ出し者の悲哀を描いてる点ですこしだけ共通してるかなあと思った。バレットは四角四面の正義感で突っ走る韓国系刑事が、野生の生き抜く勘が発達した殺し屋のスタローンにたびたび命を救われながらも反発しあいつつ最終的に命狙ってくるラスボスのとこへ共に踏み込んでく話。スタローンがそれまで生き抜いてきた勘を総動員してやったらいかんことを再三警告してるにも関わらず、警察外で生きたことのない優等生的なカン刑事が言う事きかずに突っ走って痛い目にあうくりかえし。ヒル監督はスタローンと比べて細身のサンカンさんをみて頭脳派的な真面目キャラをアテたんでしょうけども、韓国の暴力映画俳優といったら金槌やパイプ椅子で突然ぶん殴ったり、ドロップキックかました挙げ句に号泣するのが醍醐味ですので、そこらへんからすると本作にでる韓国系俳優さんはなんとなく香港俳優的な扱いと似通ってしまった感。バレット、はしご1発目の午前回にみたんですが、もうこうゆう映画だけでいいかと静かに思っていたりしました。
イノセントガーデンは父ちゃんが死んでから訪ねてきた伯父さんによって殺人欲求を開花させられてく高校生の少女の話。サイコパスカッポーが誕生するのかなーと思いきや主人公が意外にも伯父さんを受け入れない展開に。あれは主人公がお父さん大好きっ子なので、その愛するお父さんをブチ殺した伯父さんが全然ゆるせないからああいうことになったのか、それとも単に殺しの悦楽をたのしむのは自分ひとりきりでいい、という真性サイコパスとしての矜持を見せたってことなのか。どっちなんですか。伯父さんのほう、サイコパスとはいえ中学生が悪事してよろこんでるふうな、サイコパスとしてはちょっと甘いかんじでしたしな。まあ納得。
パパの木は父ちゃんが死んで以来、家を覆うように茂ってる大木から死んだ父ちゃんの声が聞こえるー!とかいって母娘が新しい父ちゃんを拒む話。母ちゃんは当初新たな男を受け入れようとしてたんですけども、なんだろう、最終的に末の娘が頑として拒んでることに対してまず話し合ったり理解しようとしたりせず、強引に合理性ばかりゴリ押しするあたりから見限ったてことなのかなあ。なんだか話し合いがいろいろ足りてない状態でくっついたり離れたりしてわけわからん家族だなーと思った。