「ヒドい人」て誰にとっての酷い人なんでしょうね

人命を奪うことの多い現象を「ひどい」て見なすのは人間感情に根ざした視点であって「生き残るための効率」に反してるゆえにその視点からは離れづらいんだよな。津波にしろ土砂崩れにしろ、公園の砂場で再現すればただ水があふれただけだったり、土がこぼれただけの「モノの移動現象」でしかないんだけども。命を奪いかねない自然現象を乗り越えて生き抜くためには動物的勘や臭覚が必須なんだが、自然現象に対して「悪」みたいな感情的視点を持っているとその動物的な勘を磨きづらくなってしまうんじゃなかろうか。生き抜くに特化した動物の勘、てのは「人間以外からの視点」の身近な例であって「時の常識に影響されずにいつも真実を見抜くことのできる眼」に直結してるんじゃないかと思う。人間視点でしか物事をみなくなると、効率優先からした善悪判断しかできなくなって、感情のままに無意味な弾圧だとか差別だとかがはじまるかんじ。たとえば津波にしたって「害」て決めてしまえばその映像ですら「忌むべきモノ」「みてはいけない」モノとして差別的にしか見なされなくなるんだが、津波があったことで仕事を得たヒトとか、それが契機になってなんらか新たな関係ができたヒトだっているわけですよ。「津波=害」をまかり通すと、後者は悪者扱いされたり蔑視されたりてしまうわけ。そうしてると津波のもたらす多面性だとか、そこに含まれる人にとっての恩恵をも見逃してしまいやすくなるんだよ。被害者ぶってメソメソしてるといつまでたっても荒っぽい相手とは友達になることができない件じゃないけれど、「みるのがツラいから」て視聴者の意見だけを取り入れて津波の映像を民放でまったく流さなくなる、ていう態勢でいるかぎりは「真実を見抜ける眼」を培うことから遠ざかるばっかりだと思うがなぁ。あるがままをみることのできる眼を保持するには、だれからの観点にも汚されてない、あるがままを全部みせる、ていうのが大前提になるんじゃなかろうか。時の常識では「ヒドい」「見せるな」といわれる血まみれ映画なんかを上映する映画館がたくさんあって本当に幸運だった。おいらがいろんなモノについてあるがまま見ることができるようになったのは、ひとえにそういった映画や漫画なんかの作り手と、それらを流通させてくれたヒトたちのおかげ。彼らがいなければこの文章すらも書かれることはなかったと思う。原爆雲の形状を美しいと思う気持ち、津波ありさまを面白いと思う気持ち、それこそが神仏と共にいるために必要な心持ちにつながってるぽいのだけども、それだけではいざというときに生き抜くことができなくなるかんじ。なんとかいう戦争映画で、戦場で黄色い蝶をみかけてつい手をのばしてしまったがゆえに兵士が命を落とすシーンがあったけれども、凄惨のなかでも物事の面白さや美しさを見抜く目を保ちつつも、同時にその凄惨を生き抜く冷徹さを併せ持つ、てのが正解ぽい。そういえば前回の震災時は勤め先で商品が次々ひとりでに落ちてくるのを「なんだこれ面白い」と思わずにいれなかったなー。あのままボーっと眺めっぱなしだったら直撃くって死んでたな(社員さんに救われた)。震災関連では周囲に死者が出なかった幸いから、かえって「非日常下でしか味わえない面白さ」が深く刻まれてしまったのかもしらん。正直ゆってあの日のテレビはリアル災害映画まんまのとACのプロパガンダじみたくりかえしで気が狂いそうだったのも面白かったし、それに付随してインターネッツ職人が腕を振るってたのもまた面白いの相乗効果でしたよ。単に直下じゃなかったからのんきな事ゆってられるってだけなのはわかってはいるんだが、同じことをヒドい目に遭った人の前で言えんのか!て言われてもなー。うーん。それはそれで経験なんだよな。津波で死ぬ、ていう。死んだヒトも、そのヒトを失う経験をしたヒトも、それと震災を楽しんだヒトも、すべて等しく「この世での経験」なんだよ。どれかひとつの経験を「悪」だとか「いけないモノ」とすると、神仏はやってこなくなると思う。しちゃいけない経験なんて1コもないんじゃないのかなー。「ヒドい目に遭ったヒト(非効率)」の前で「ヒドい目に遭わなかったヒト(効率)」の話をするな!てのはまさしく時の常識に囚われて断罪してる例だし、いちいち自然現象が起きてグラついてるヒトを至上としていると、それを勘案しなきゃならんがために動物的勘が「冷血」よばわりされがちになって、結果置き去りにされてしまうんじゃなかろうか。破壊された自然を回復さすのに物凄く手間と時間がかかるのと同様に、傷ついた人の心を回復さすにはじっくり腰据えて気長にあたるしかないのだけども、仮に野生動物がその状態に陥ってると食われるか野垂れ死ぬかが早まるってだけの話になるんだよね。単なる自然現象の前でグラついてるヒトが多いってことは、そういう精神状態に陥りやすい体制下で長いことバランス崩しやすい観念を刷り込まれ続けてきた結果てことなじゃないのかなー。本来的にテレビなんかが「だれからの意見にも影響されず、すべて見せる」態勢を貫いていさえすれば、偏った観点に陥らせず精神耐性を強化する流れをより推し進めやすくなる気がすんだがね。ぜんたい「いい人に思われたい」てのを軸にしてる限りは真実をつかみづらいだろうし、いつでもブレずに行動できる中道なんか体現できなくなってしまうと思う。神仏の生まれ変わりさんほどそれに陥りがちになってしまうぽいのがなー。嫌われてもかまいませんが?て、自己犠牲を貫いて本音をぶちまける訓練をしとくと吉よ。
非道を働くヒトが出たときは、そのヒトを1発で諌められるような言葉や仕組みが足らなかったことの証なので、非道働くヒトがヒドいのではなくて自分らの至らなさに怒って改善に動くってのが中道的な考えかたなんじゃなかろうか。ヒドい人のありさまが悪だからつってテレビなんかで流さなくなると、自分らの至らなさも自覚できなくなっちゃうよ。ちなみにリアル犯罪者映像(時事ニュース)と映画やドラマなんかの血まみれ映画(物語)なんかは種類が別なので、前者は自分らの至らなさを確認するモノ、後者は神仏のあつかましさすら可愛がれるレベルの精神耐性をつけるためのモノとしてもっとふつうに晩ご飯後あたりの時間帯にお茶の間で流されるといいと思う。わし子供のころにテレビでそういうのしぬほど見て育ったし。情操にいいよ。マジで。
 

追記。「いい人と思われたい」ゆえにそのイメージを他人に信じこませてしまうと、いい人キャラを保つために自分で自分の欲求を抑えてまでその虚像を演じつづけなければならなくなって、それじゃ中道体現どこの話じゃないと思うんだがね。自分の人生は自分で差配していいはずなのに「自分の嘘キャラ像を信じ込ませた他人」によって自分の人生が常に監視&コントロールされるような自縄自縛的な事態に陥ってしまうんじゃなかろうか。いい人なんてやめちまいなよ。大体そのキャラやっててもいっこうに得してるように見えないんだが。神仏みたいにムカーとしたときは怒っていいし、ヤなときはヤだってわがまま言っていいんだよ。やっちゃいけないことなんてこの世にないんだから。ヤなひとで上等じゃんか。嫌いたきゃ嫌わせときゃいいんだよ。他人がどう思おうとアンタはアンタなんだよ。嫌われることを怖がり過ぎ。むしろケツの穴のちいさいアホンダラがしぜんに離れてくれるんだからこんなラクなこともねーよ。