「考え方を変えてみる」のを遮ってるモノは何なのかな

『エルサは、隠さなければならなかった自らの魔力について、望まぬ状況で告白することになってしまった。そのために、自分はここにはいられない、と城を後にするわけですが、彼女は、誰を恨むということもないんですね。ここで誰かを(自分自身も含めて)恨んだり、憎んだりしてしまったら、ディズニー・ヴィランズ一直線、高いところから落ちて死んでしまったでしょう。
また、彼女の力が失われることもないんですね。自分はこういうふうに産まれたのだから、変えられない。生まれ持ったものを変える必要はない、それを他者が受け入れるかどうかは自分次第かもしれないが、無理をしてまで周囲に合わせる必要はないんだよ、ということです。』(アナと雪の女王/やめて、あなたを傷つけたくないのより抜粋)
『「児童虐待防止法ができあがるころ、いろんなメディアから取材申し込みがあって、私たちはこどもが特定されないように相当な規制をかけて許可した経緯があったんですね。その規制は例えば、子どもの顔にボカシをかけたり、「光の子どもの家」の「ひ」の字も出さないようにしたり。

ニュースの間に挟まれる特集だったのですが、それを子どもたちも見ました。中高生女子がターゲットになっていたので、その子たちがとてもショックを受け、非常に不快だったようでした。「わたしたちは何か悪いことをしたのか」と。悪いことをして、非行少女みたいなことでボカシを入れたのかと、私のところに抗議に来たのです。
そのとき、胸を突かれる思いがしました。守るつもりが差別をしていた。
<中略>
たとえば、私に抗議に来た女の子たちは「甲子園に出る高校球児たちは誰もボカシが入ったりしない」と言うんですね」
出典:隣る人パンフレット 発行日2012年5月12日 編集:大澤一生 ©アジアプレス・インターナショナル』(【明日、ママがいない最終回を迎えて】 誰も傷つけない表現はなく、誰も救わない表現もまたないより抜粋)
「罪の規定+謝罪」の概念を是とするのであれば、神仏にもそれを適用しなきゃならなくなるんじゃなかろうか。特に日本の神話なんかでも神様たちってけっこうヒドいことやらかしてるんだけども、それに対して「謝罪した」的なくだりは一切ないんよね。コノハナさんが八ヶ岳タコ殴りにした件とかヤガミヒメがいるのにスセリビメを連れてきちゃったオオクニヌシとか、やらかしたことで悲しんだであろう者に対してべつに謝罪なんかしないのよ。自分自身どうしてやっちゃうのかわからないけれど「せずにいられない」行動てのは掛け値無しの本音―嘘偽りのない、むきだしの自分自身そのものであって、そこから出てきた言動を「罪」として断罪したり「謝罪しろ」とか強要したりするのは存在否定にしかならないんじゃなかろうか。正直にぶちまけた本音や、そこから派生した言動についていちいち非難されてたら、本性をだせないようになってしまうよねえ。そうなると本音をださないで嘘の仮面で生きてくしかなくなってしまう。だからこそ神仏はあつかましくて怒りっぽい本性をいつでもむきだしにしてんだな(笑)神仏が嘘つきはじめたらもう神仏じゃねーもんな。神仏にしろ人間にしろむきだしの本音を「あってはならないもの」とされたら、じゃあ生まれもってる本音だとか性質だとか、てのは存在してはいけないのか?いま自分が持ってるコレはいったいどうすればいいのか?てなって、消えるしかなくなるよな。自然てのは穏やかな状態から荒れ狂う状態まで色んな様相をみせるけども、真に自然を愛する、となると、そのすべてを同じように愛すことが大前提になるんすよ。小春日和と土石流を同じように愛せるか、つー。その自然の孕む様相のうちのたった1つでも忌み嫌ったり、極端に憎悪したりすれば「あるがままを愛することができない」心持ちになって、自然への否定や嫌悪につながりやすくなってしまうんだよね。「自然現象のすべてを等しく愛する」にはどうしたらいいかというと、過度な期待をしない、てことに尽きるんじゃないかと思う。自然てこんなもんだよな、て思いさえ徹底してればへんにガッカリしたり怒り狂ったりすることなんてないんすよ。ただ、時の常識に感化された意識でいると、その心持ちになりづらくなるんだな。時の常識は常に「効率優先」を念頭に置いた価値基準になってることが多いから、効率を阻むモノはなんであろうと「害悪」や「災厄」とみなされやすい。「災害」て表現にしてもあくまで「人間の都合で名付けられた」現象名であって、人間にとっての「災害」現象が他の生き物にとっては「恩恵」だったり「壮麗」だったりするかもしれんのですよ。時の常識にまどわされることなく、目前の事物をあるがまま受け止めることのできる精神状態でいることこそが、すべて等しく愛することのできる中道を体現することになるんじゃなかろうか。自然を愛する、てことは神仏のもつ激しい気性もぜんぶ愛するってことと同義なんでしょうな多分。神仏がおいらんとこ来るのも、けっこうな身勝手かましてきてもいつでもブレずに相手するあたりで安心して全部さらけ出していられるからなのかなーとちょっと思うし。殺人鬼の極北事例とか内臓がドブドブでる映画とかわりとみてきたんで、そこらへんの耐性はなくはないですけどもね。経験からゆうと面白半分に人殺しするようなたぐいの死体のゴロゴロでるヒドい映画とかいっぱいみとくと神仏の厚かましさなんて可愛らしいモノにみえてきますよ。まさかこんなとこでスプラッタやスラッシャーものが役立とうとは(笑)神仏はねえ、おしとやかだとご利益もおしとやかなのでしぜんとうっとうしいヒトが前面にでる方向になるみたい。神仏でなくとも責任感が強いヒトほど世話やきレベルも高いからしぜんとうっとうしくなりますわね。しかしさっきも聖観音(裏)ちゃんとこのお参りを金龍舞みたさに短時間で切り上げて帰途についたらたちまちミニチュアダックス(ドーベルマン風の色)の脱糞中現場に出くわされましたしね。毎度思うがあのタイミングのよさどうなってんですかね。信号赤中の歩道のたもとにチャリでたどりついたと同時に向こう側でダックスがこちらに尻向けてひりだし中ですよ。コノハナさんもこっちの都合無視でお参り来させたい的なときに行かないでいるとすぐ怒った顔するし(お参りしたら今回の日記かく元ネタ的な断片を頂いたので悪いこた言えないんすけどね)。でも神仏のうんこメッセージにしろ勝手に居座ってわがまま放題するのにしろ、ぜんぜん怒る気にならんのだよな。傍目からするとわりとヒドい出来事だったりしても、こっちがグラつきさえしなければまったく問題ないつーかね。前の勤務先に勤めはじめてからずうっと夫人のヒス激怒の標的にされて、難癖じみたことで頭ごなしに怒鳴られる理不尽ぷりに6〜7年くらいはほんとツラかったんだが、がまんして昼飯時なんかや仕事後の飲みに付き合ってあげてるうちに夫人も心なしか穏やかになってきたし、13年くらい勤めた最後のほうではもうどうしてそういう態度だったのか理由もわかってきて(社長とのことだとか仕事上でのことで発散する場が必要だった)、責める気もまったくなくなってたんだよね。あー、さみしかったんだろうなーと思って。ただ話きいてあげるだけでもいいんですよこのテのヒトって。いっしょにいて、できれば本音交わしてあげるのが大事なの。それだけで安心して心開いてくれてダチになれるんだよ。お互いにハラんなかをブチまけてるから、もう大体わかり合ってるわけ。だから安心して好き勝手話せるんだよね。もしもおいらが我慢できずに10年たたずに辞めてしまったり、理不尽にはけ口にされたことで「被害者」きどりになってメソメソしてたりしたら、ヒスの裏にある本音に辿り着けなかったろうし、ダチになんてぜったいになれなかったろう。がまんとギャースカやる根性を捨てずにいられた(それができたのは実家内のヒトビトと共に暮らしていた恩恵が大きく寄与している)からこそ夫人とはお互いに安心できる関係が築けた。サイコパスでもないかぎり、おおかたのヒトとはこうやってわかり合う事ができるんじゃないのかなーとすら思ってる。なんらかヒドいことをされた際にいったん「被害者」て自覚を持っちゃうと、加害側を理解しようとする気持ちよりもヒドい目に遭ったときの不条理感覚を帳消しにするような補償だけを求めるようになってしまって、相互理解もせず気分上の「損失補填」で満足することのみを善かなにかのように勘違いするようになってしまうんじゃなかろうか。「損失補填的な補償をもぎりとる」のは損得勘定を基底とする貧乏根性を満たすだけの仕組みでしかないし、道徳面でいえば相手を屈服させることで場当たり的な鬱屈発散させることにしかならないんだよね。なんつーか「被害」「加害」の2項のみに振り分ける発想自体がなんだか企業に於ける財政的観念にちかい発想でやりとりされる概念であって、真の解決であるはずの「相互理解」からやたらにかけ離れさせる仕組みでしかないようにみえるんだが。社内イジメ的なのも実はやりようでどうとでも転ぶだろうにおとなしくするしかしない時点で「加害・被害」しか考えつかない精神状態な証左なんじゃねーのー?て思えちまうけどなぁ。金儲けの世界に出たらたとえ社内といえども海千山千の相手に取り囲まれるのは当たり前で(どうやったら他国同業よか元手安くイイものを仕入れられるか、てのにアメリカなんざ血眼になりすぎて時代遅れのプロパガンダに平然と加担すんですよ?)、ろくに戦いもせず泣き寝入りなんかしてたら永久にターゲットにされるに決まってるじゃないのよ。ヒドいと思うような目に遭ったときは、ビタ1文グラつくことなく「相手がどうしてそういうことをするに至ったか」て原因を冷静に追求してくが吉よ。グラつかされたほうが負け。いつなんどきも心のぐらつかない胆力を保持しつづけた方がどんな世界でも生き残るんだよ。原因をすべて知るに至ったとき、かつてヒドいと思っていた出来事が実はヒドくもなんともなかった、てことにふと気づいたりするかもしれませんよ。