人間は不純物と夾雑物からできているのだ






『恐ろしさにもかかわらず、これはどうしようもなく魅力的だ。ちょうど誰もがキノコ雲を美しいと思い、アウシュヴィッツの映像から目を逸らせないように、それは人間には決して到達できない境地である。』
本日題と上記『』内はココのモノ。実兄の職場にいるおばさんたちが子供の読んでる漫画の気持ち悪さ(進撃の巨人とかトリコとか)について「なんであんなの読むのかしら」つって嫌悪感丸出しで語らってたらしいんだけども、もともと人間に関わることってのは気持ち悪くてあたりまえで、そういう部分もぜんぶひっくるめた豊穣さこそが市井の娯楽だったのに、それを削ってしまったモノ、てのは権力者にとっての都合のいいモノであって、もはや市井の心を満たすための娯楽ではないんだよね。不気味なモノ、説明のつかないモノの排除を「善」とする、てのは見目悪い向き排除しまくってきた権力者の観念なんだよ。「古き良き価値観」の範疇に入る要素として「お隣さん同士でいつも助けあってた」的な語りをお年を召した方から聞かされますが、それは福祉政策ゼロ時代の障害者たちが人の避ける危険な場所での仕事しかなかった(為にもろに災害を被ることもあった)けれど周辺のヒトみんなで助けあって生きていられたとか、迫害されているヒトほど助け合わなければ生きてゆけなかった時代からのなごりなんじゃないのかなー。権力者が排除しまくってきたヒトたちが醸成してきた相互扶助の観念を良しとしながら、やっかい者の排除を善とする、てのは実に相反する道徳状態ですなぁ。死体に関わる職業が蔑まれたのは殺しを罪とする仏教思想に端を発している、つっても武士だって殺しまくってたはずなんですがねー。まあ武士は武士でそこらへんに震え上がって大急ぎで寺なんかをつくりまくったらしいですけども。差別てのがグレーゾーンの存在を蔑んだり忌避することからはじまってる、てあたりからしても股で稼ぐヒトを見下す観念がまかり通る社会、てのがいちばんおかしいんじゃないかと思ってるんだがね。戦時に股で稼いでたからって蔑視する心根てのがねえ…。体を使うって点でいえばマラソン選手と同じなんじゃねえかと思うが。「中退者」だとか「ひきこもり」てのも現代の「時の常識」に照らし合わせると敗者とみなされがちだけども、見方をちょっと変えれば実は強みになる要素だったりするあたり、1つの観点だけで物事を判断してると得になるもんまで切り捨てちゃうことになりがちっぽい。見方によっちゃ落ちた状態を熟知してるとも見なせるしね。自分が世間的にどういう位置にいるのか、てのは当人がいちばんわかってるんすよ。それも勘案せず「敗者」側になったヒトを白い目でみたりしてるとなにもする気が起きなくなっちゃうのは至極あたりまえだよな。時の常識に於ける「敗者」ポジションになってる、てのを意識しすぎると自己嫌悪に陥ってくと同時に精神の袋小路に入ってしまって、それでも前向きに生きるしかないとなると自分と対極にあるモノを脅かすしかない方向にいってしまうんじゃなかろうか。そういえば前回にも触れた「異論者を遠ざける精神」てのはこのテ見慣れないモノ(から身を守りたいがゆえに発動する)への恐怖感に根ざしてるのかもしらん。権力者側としては彼らを見下すことで自分とは違うことを確認して安堵してるものの、ほんとは彼らと同じ欲求や感覚を持っていながら同じとみなされることに恐怖してるもんだから「見下す」という形でしか自分のなかの異形的欲求を解消することができないんだろうな。大昔の西洋では時の権力者から排除された者たちがありのままの自分でいることを許されるイベントてのが定期的に開かれてたそうで、そうやって発散させんと何をしでかすかわからないっつー不安感を抱いてたんすかね。理由のないことだとか説明のつかないこと、てのは現在の常識からするとキチガイ視されがちだけども、ありのままの真実は時の常識からは程遠いほど複雑だからこそ面白いんですよ。キレーに均された安全安心のイベントなんか念仏と踊りと食い扶持探しがないまぜになった混沌からするとさして面白くないんだよ。心を震わす「美しさ」や「面白さ」てのは道徳や時の常識とは無縁なんだよね。たとえば原爆雲だけを羅列した写真集とかあるけど、雲のありさまだけみればすごく面白いし綺麗だったりするわけ。人の心動かすような形状のおもしろさ、てのは道徳とはまったく別の話なんだよ。そこらへんは欧米の方ほどよーくおわかりですよねー。そのテの観点保持してるからこそ芸術に対して純粋に「評価」できる体制があるんですしねー。理路整然とした説教よりも不思議な霊話のほうが市井に受け入れられてた件もそこらへんを地でいく話だな。不条理話のわけのわからん面白さからすると正論てのはカスにしかみえませんからね。物事を多面的に見ることが真実を見出すに際していちばん大事、てのは実際には確率にあてはまったかどうかってだけなのに自分で選びぬいたという達成感を正誤の基準と勘違いしてしまう件と合わせて覚えておきたいところ。なりの「恐ろしさ」だけに囚われてると根底にある強烈な愛情を見抜くことができなくなる、てのと似てるなー。未練、てひとくちにいうとドロドロしたナニか的なモノに思いがちだけど、あの世いく前にかつての喜びをもういちど味わいたいだとかちょっとしたこだわりが叶えられるかどうかにかかってるくさい。そのちょっとしたこだわりが解消されなければこの爺さんはいつまでたっても成仏できないでいた可能性大だった、てことなんだな…。とすると死んだ瞬間からずっと死んだことにすら気づけないまま怨霊化してってしまうのと同じく、未練抱えた(=コレをしないではあの世いけない的な)ままの状態でいるだけでも怨霊化してしまうんだろうか(死後に言う「心と体がバラバラ」つーのは魂と魄が離れてしまってる、てことなのかな)。死んだことに気づけない魂自分の死に気づいて混乱すると持ってるちからを暴走させて生きてる人まで傷つけてしまうのは怖いことだな。自分のこと自分ではよくわからないを地でいく事例だ。しかも現世の人がゆるしてくれてるかどうか魂の具合も左右されるらしい(水子さんは目鼻がついてないあたりからして現世での認知具合、てのが魂にもろに反映されるっぽいすね)ので、死んでもゆるさんとかゆってると死んだヒトがずうっと苦しんでるやもしらんとゆう。霊が怨霊化するのは生きてるヒトがヒドい目に遭わされるのと同じようなことをされたとき、てのと同じで霊の世界と現世が地続きであるからこそないがしろにしちゃいかんてアレにつながりますな。恐れ・不安・怒りを持った状態の魂がとどまる場所にいるかぎり習慣や健康状態も生きてたときと同じらしいので、頑固なヒトがその状態に陥るといつまでたっても成仏までこぎつけられなそうだな。ちなみにこだわりを持ったまま死んだヒトの魂がとどまっちゃう場所てのは音のない淋しいところだそうですよ奥さん。こだわりが解けた瞬間に雨が降るてのは生霊処理に水が関わってる件と同じナニかなんだろうか。
尚、死んだヒトと交流するにはまず自分が元気を取り戻すことがいちばん大事とのことです。