それを目にしたときの自分の快楽を描くのだ

『子供のころに抱いた、人間や物に対する幻想を忘れてはいけない。それらを大事にする心は、冷静な計算と分析によって簡単に汚されてしまう。人の抱く幻想を無視してはいけない。むしろ、仕事を通じてその興奮を持続し、広げていくべきだ。』(p.85)
『現実の物をそのまま模倣することは、自分の感覚に価値をおかない人にとっては楽な仕事である。子供のころは空想の世界に遊んだ人も、大人になると、かつてあんなに大喜びでまたがった跳ね回る暴れ馬がただの古ぼけた箒でしかなかったことを受け入れる。』(p.91)
『画学生にとって真の勉強とは、生まれもった感受性と子供のときに授かったすばらしい想像力を育てることである。そして、残念ながらほとんどの場合、人は大人になると、現実に直面する前から、そんな想像力との結びつきを恥じて捨ててしまうのだ。』(p.85-86)
『画学生がモデルを前にしたとき、最初にすべき問いかけはこうである。「これのどこに最高の喜びを感じるか?」そして「それはなぜか?」がつづく。すべての偉大な画家たちは、この問いかけを―このままではないにせよ―たぶん、無意識のうちにしている。』(p.89)
『私はあるとき、若い画家にこう訊かれた。自分なりの絵のスタイルを貫けば、作品から多少の金を稼ぐことができるだろうか、と。その画家はかなり才能があり、絵に注ぐ情熱もたいしたものだった。だが、彼の作品が世間でもてはやされることはまずないと私にはわかっていた。画家になる前は、トマトの缶詰などのラベルのデザインをして生計を立てていたそうだ。そこで、トマト缶のラベルのデザインをつづけて生活費を十分に稼いだうえで、空いた時間に好きな絵を描いたらどうか、と助言した。たまたまその時期には彼の初期の絵が売れはじめていたが、一方、彼自身は自分のおかれている状態に満足がいくとはとてもいえなかった。彼はいまや昔の絵を売って生活をし、新しい作品を好きなように描けるようになっていたのだが、それはトマト缶のラベルのデザインをしていたころの状況と何も変わっていなかった。』(p.180)
『自分が本当は何が好きなのかを知るのは簡単なことではない。
 このことについて、自分を騙しながら一生を送ってしまう人も大勢いる。』(p.183)

上記『』内と以下頁数が書いてあるモノはすべてこれからで「どうしても伝えたいことがあるという欲求」「ぜひともこれをいいたいという気持ちから生まれる」(p.19)て部分は文かくときもまるで同じなんですけど、文の場合は「(それまでの経験で見知ったような)いい文」を書こうとするあまりに「こんなわかりきったことは書かなくてもみんなわかっているだろう」と勝手に思い込んで自分の感じたいくつかを切り捨てて忘れ去ってしまうことがわりに多い気がする。頭で考えているときにはありきたりのつまらない考えだと思っても、実際に文で書き出してみると自分が思っていた印象とはちがっていたりすることがあるので、みたものについてかくときは「こんなくだらんことわざわざ書く必要ない」とか思わずに感じたすべてをとにかく出してみることがなによりもたいせつに思う。すると自分でも気づかなかったモノがでてくる場合がわりにある。「だれかの影響」ではなくむき身の自分が感じたことで「つまらないこと」てのはひとつもないような気がしてる。つまらないとの評や尺度はたいてい数字的な利益に照らし合わせての(自分の快楽ポイントにはそぐわない・もしくは害になる)ことで、自分自身の深い箇所をさぐってたいせつなことを見出したいときにはまるであてにならない。頭では「つまらない」としか思ってなくても、自分のなかの深いところではもっとべつのなにかが発生しているかもしれない。ヒトは思ったほど意識を精査しきれてないとゆうか。くだらないとか、かく価値なんてないと感じていても、それでも思ったことすべて書き出せば「深いところにあるなにか」の手がかりの一端がもしかしたらでてくるかもしれない。文をかくうえである部分には「裸」がふさわしいのか「はだか」がふさわしいのか?それは各人の快楽がちがうので限定することができない。どの部分でどの表現がいちばんきもちがいいと感じるのか。その快楽点に忠実になりさえすれば「優れた文体」はできあがる。絵も文もかわらない。感動や恍惚に基づいてつくった作品はじかにこちらの心をゆさぶってくる。どれだけ時間が経っても色褪せない。時代ですらも関係がない。人間の魂にはなんら隔てるモノがない。ヘンライがアートスピリットで一貫して語り尽くしているのはそれだ。技法は自分の感じている恍惚を表現するにもっともふさわしいやりかたを見出すための道具でしかないので、まずは恍惚をみつけだせとゆってるようにみえる。そうすればなにをかいたらいいのかがおのずとみつかる。先月パウルクレーみてて、なんというか長電話してる最中に無意識にかいてた絵みたいな無軌道なラクガキ的絵柄で、そういう線版画にていねいに淡くてきれいな色が塗られているんですが、まずこういうふうに描かれた絵を学校教育はよしとしないよね。ごくちいさいころとか精神障害者については認められても、その他の年齢の健常者にはその破天荒な技法で描くことが義務教育では認められない。p.266-268でも芸術教育へのヘンライの苦言が書かれてるんですけど、現行の義務教育の教科書の延長として印象派がいまや「偉大なものの代表」と商業宣伝されすぎて巷では盲信&辟易されてるなんてヘンライは思いもしなかったろうな。評価がビタ一文ゆるがないっていうのはそれはそれでなんかおかしいと思うよ。本来的にどんな個性も評価するのであればどんな技法も同じく評価されていいはずなのに、たとえば写真のように写し取る技法だけが「常識」で「最上」とする教育がすりこまれていて「きれいかどうか」が後回しなんですよね。正攻法的技術は本格的にその道をめざす者に必要なのであって、公的な広く浅い「芸術」教育には「自分の感じる美しさに忠実になること」を教えることがまず大切なんじゃないのかな。現実にはそれが逆転してる美術教育体制なので、クレーみたいな抽象画をみても多くが「こんなラクガキ俺でもかける」て技法上の感想しか抱けずに素通りするだけなんだよねえ。そう、クレーみたいな絵はあんたも描けるんだよ。だからこそ親身に感じられるはずなのに。こいつはこういうあたたかみなのかって。恍惚に忠実になって描いたモノにものすごく手間隙かけて、みたヒトが自分が抱いた感動と同じモノを感じられるよう、ていねいに美しく仕立て上げた。ふつうの人と芸術家とのちがいはそこで、芸術家とよばれるヒトは誰でもできることにハンパない手間を注ぎ込む。クレーはおもにゆらぐ直線や四角に区分けされた透明感のある淡い色に恍惚を感じていたようで、そうやってつくられたもんをみて、まあ相性があわんことはあってもなんにも思わないわけはないんだよなあ。共通言語的なもんが描かれてないから「わからない」て放棄しちゃうのって、逆にいうと他者をわかるものだと思い込んでるってことだよね。他人を理解できるわけないのに。理解できないなりにありようをたのしむのが基本的な創作物の鑑賞方法なんじゃねーのかね。技法(p.238「アイデアを表現するには科学が必要だ」)ついてさんざんカキましたけど、アートスピリットのなかでヘンライが特定の画学生の作品を評しながら実技的なことを語ってるところがわりとあるんだけど、実際にその作品の画像でものせてくれたらよりわかりやすかったんですけどね。芸術教育関連でp.151-154に「恍惚は競い合わすたぐいのものじゃない」「真に新しいもんには古びた人の評価は必要ない」「援助すんなら見返り強要するような卑しいまねはすんな」とか芸術家への援助について書いてあるんでその気のかたは立ち読みせずに買ってよみなよ。教育については教えようと思ってるもんを嫌いにさすようなことはしないでほしい。それって各人のツボどころに合致さすやりかたってことですけど、現実にはそんな手間はいちいちかけられませんわね。芸術品の見方についてはp.221のなんの知識もなくみた踊りはすごくたのしかったのに「正しい」知識に基づいてみてみたら勉強になった気はしたけどちっともたのしくなかった話みて、よけいに展や映画はまっさらなバカ状態でみようと決意した。しぬまでそうする。なまじ情報がいっぱいあると味わうことが置き去りなっちゃうのなあ。恍惚や快楽はどうもデリケートでちょっとしたことで立ち消えちゃうのね。それでも表現するときはさーp.145の秩序についての話じゃないけど、なにか悩み事があるときのほうがかえって仕事を冷徹にこなせることがあるんだよね。おいらの場合映画とか展の感想文だけを集中して書くよりも、気に病んでることを抱えながら感想文かくほうがイイ調子ですらすら進むことが多い。つらいけど。ある程度突き放したほうが冷静になれるからなのかな。表現に関するこころの状態てデリケートなわりにみょうに強固だったりしてむつかしい。
あと上記『』内に抜粋したトマト缶バイトの画学生の件じゃないけど、自分のつくったモノが売れてってそれだけで生活したい思いって、多くはつきつめると衣食住の満足感や名誉欲を満たすためでしかないんだよね。それって対象への恍惚をものする欲求とは真逆なんだよ。時間や金を惜しんでると恍惚は得られないし、恍惚を得るほうを選べば時間や金がなくなる。なにかを収集してるヒトに顕著なんだけど、死が間近の年齢になると自分の名をこの世に残すことに奔走しはじめることが多いんですよね。あつめたモノをどこかの機関に寄贈するとかして。でもこのご時世では寄贈も容易にはできない。集めたモノのほとんど全部が時代を超えた鑑賞に耐えうるほどに優れていれば特例としてあるくらいで、どこにでもある寄せ集めをなにがしかの機関が受け入れることはない。その差は真に優れたモノを見抜く目があるかどうか。寄贈する段になってはじめて自分がどういう観点で収集したかが断罪される。巷の評価に左右されてしまったのか、あるいはだれも見向きしなくとも後世にのこる質のモノを見極めてきたのか。死がはじめてヒトの生き様をみせてくれる。いまよりずっと前の芸術作品をみにいく際の選択基準として「リアルタイムにもてはやされていたから」て理由でみにいくヒトってあんまいないよね。たいていパッとみて好きかどうかじゃん。作り手が全身全霊こめていて克つ時代超えて生き残ったもんのなかからまた取捨選択されてくんだよね。 だったらたとえ生活困窮して苦しんでも自分に忠実になった作品を残したほうがよくないか?どのみち忘れ去られるなら万が一にも作品が残っていたときに保存される可能性が高いし。リアルタイムにもてはやされていたモノは作品も作り手も100年たつときれいさっぱり忘れ去られていることがすごく多いだけに。特定の100年間に存在した「芸術家」の総数のうち100年以上経ったあとも名の知られている人間がどれだけいるか・そのなかで存命中に華美な生活に耽溺していた人間はどれだけいるか…という統計をつくったらわかりやすいだろうね。
以上はヘンライのアートスピリットをよんで出てきたことですけど、おいらが日記書いてて思ってたこととほぼ同じことが語られていてほほーと思った。どんなジャンルであろうといきつくところは同じなんだなーとしみじみ。アートスピリットは一貫して正論をアツく語る調子で書かれてるんですけど、本文の清廉な雰囲気をひっくりかえすかのように解説でヘンライと周辺のゴタスタについて2段組20頁弱でたきもとさんが書き連ねているので必見。かれのゴシップえぐりだし文章がこれだけ黒光りしながら合致してる本もめずらしいよ。ヘンライという名前に秘められた後ろ暗さから重鎮としてもてはやされ、それに付随して生まれたヘンライに恨みを募らせる人間と、その栄光の果てにいきなりデュシャンがあらわれて全部ブチ壊すところがすごいびっくりした。このゴシップ横溢な黒い解説がヘンライの清廉な芸術論とセットになってるのがひどくおトク。ヘンライが名門校に入る前までいたトマスイーキンズが全裸性癖すぎてわろた。たまにいるなー全裸性癖の芸術家。寺山修司も下半身はだか(プーさんか)でひとんちのフロのぞいてたんだよね。恍惚に忠実になるのは作品でね。なにしろアートスピリットでは作品に自分の恍惚をそそぎこむことのたいせつさについてヘンライさんが語ってますのでなにかつくる方はどなたでもよんどくと吉。
自分自身の深いところにある「恍惚」がきれいなものとは限らない。他者からすると世にもおぞましいものかもしれない。その姿をみて怯えたり隠したりしたら、恍惚を得ることはできない。恍惚を得たければ、たじろいでもいいからすこしずつでも向き合うこと。それがヘンライのいう秩序であり、恍惚に忠実になれば「新しいこと」はわりとかんたんにできてしまっているかもしれない。

本日題はアートスピリットp.17より抜粋したモノ。