周囲があきらめないことも大事よな

『「わたし」が創り出した、アルド。    

 おおきなうさぎのかたちをしたアルドは、    

 わたしを決して放り出したりしない、いつもやさしい存在。    

 心の支え、アルドがいればなにがあってもこわくない。      

 わたしは、アルドに支えられているから、

 毎日を過ごしてゆけるのだと思いました

 もう少し、大人になって、生きているアルドに巡り合えたらいいな。

 と、思います。』(「ALDO・わたしだけのひみつのともだち」 ラムネ色さんの声より抜粋)

『「目に見えない」といっても、それは周りの人にとって見えない、という意味であって、子ども自身は、まるで現実に存在するかのようにイマジナリーフレンドの姿を生き生きとイメージしています。』(イマジナリーフレンドは目に見えないより抜粋)

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スピリチュアルかあさん 見えない何かと仲良しな日々より抜粋)

500頁の夢の束(新宿ピカデリー)→タリーと私の秘密の時間(シネマカリテ)→ブレス しあわせの呼吸(角川シネマ有楽町)→ウインド・リバー角川シネマ有楽町)とみまして、タリーと私の秘密の時間は子供3人の世話に疲弊しきったシャーリーズ・セロンのもとに夜だけ子供の世話しにくる女子がやってきてセロンが癒されて元気になってく話。中盤までこの女子はマジに雇われてて実在してるのかと思ったんですけど、後半の展開(特に飲酒運転で事故ったときとセロンが入院してるとき)の様子をみるにつけ、どうもこの女子はセロンが生み出した空想の友達っぽい。ということは夜に赤ん坊の世話をしてるのは結局考え方を変えたセロンだった、てことになるのかな。事故で入院した際に病院の先生が「(セロンが)極度に疲弊しています」て夫に告げてるとこをみるとよけいにそう思ってしまう。しかしセロンは人生にくたびれきった役やることが多いような気がするけど、そういう役が好きなのかしら。産後のストレスから腹がでて太ってしまったありさまがリアル。終盤でそれまで育児に加わらずにいた夫が、なにもいわずにセロンを手伝いにくるところからして、夜だけくる女子とのやりとりは夫との関係をやりなおすために必要な時間だったんだなーと思った。

500頁の夢の束は生活上の決まり事をいちいちメモ帳に書き付けて厳密に実行しないとうまく生きてゆけない自閉症のダコタファニング(21歳)が、大好きなスタートレックの脚本コンテストに自分の書いた作品を提出するためにロサンゼルスまで数百キロの旅をする話。最初はロス行きのバスにうまく乗り込むんですけど、ついてきた犬が放尿したせいでバスから下ろされて以降、泥棒夫婦に金とられたり、コンビニで出会った婆さんに気に入られて老人ホーム行きのバスに乗ってたら居眠り運転で事故られて入院したものの、うまいこと脱出してロス行きを再決行しはじめたりといろいろあります。ダコタファニングは似たような症状の人たちが暮らしてる館で生活してるんですけど、そこでみんなの世話をしてる寮母さん的存在の女性がダコタファニングがいないことに気づいて警察に連絡したうえ、ダコタファニングのお姉さんと共に車で追いかけてくる。その途中、ダコタファニング失踪情報から警戒してた警官にみつかってしまい、絶体絶命なとこで警官のひとりがクリンゴン語(スタトレ中にでてくるキャラのしゃべる言語)でダコタファニングに話しかけてきたもんだからおとなしくつかまってしまう。その途中だか前なんだかちょっと忘れたんですけど、ダコタファニングが書いた投稿用のスタトレ脚本を落として地面にぶちまけてしまい、そのままダコタファニングが逃げてしまうんですが、ダコタファニング捜索のために寮母さんと同行してきた寮母さん息子がスタトレのことをよく知ってて、地面にぶちまけてあったダコタファニングの原稿を読んだら絶賛してくれたりして、思わぬところでスタトレファンに出会えたのは幸福なことだったんじゃないのかなあと思った。スタトレ友達ができればいろんな話していろいろ書き広げることもできそうだし。んでいろいろあって投稿受付所までたどりつくんだが・・て筋。ダコタファニングはロスまでの道のりで日頃寮母さんから禁じられてたこと(渡っちゃいけない場所を渡る等)を破って前に進んでくんですけど、そのたびに新しいことを覚えていったりしてて、成長するためには禁止事項を乗り越えて克服していくことが必須なのだなあと思った。ここにおける禁止事項つーのは自閉症者当人のためでもあるんだけど、実は世話する人の手間を省くためのものでもあるんですな。いちいちひとりずつ構ってたらやってられないから、効率よく暮らしをまわすための「決まり事」をガッチリ自閉症者当人に覚えさすとゆう。

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ブレス しあわせの呼吸は実在したロビン・カヴェンディッシュさんという方についての映画。このロビンさんは1950年頃に茶葉の買い付けでケニヤにいた際にポリオウイルスにかかって脊髄の細胞がやられてしまって、首から下が麻痺して人工呼吸器がないと生きていられない状態になってしまうんですけど、最初こそ自暴自棄になって死にたい死にたい言うものの、気の強い奥さんや発明家?の友達に支えられて生きることに積極的になってく話。体が動かせない状態の患者がたくさんいる病院では人工呼吸器を移動さす自体できっこないと思われていたんですけど、奥さんはそれをよしとせず、人工呼吸器と共に夫であるロビンさんを自宅に連れ帰る。一応それはうまくいくんですが、人工呼吸器を動かすコンセントが外れてしまったりして冷や冷やする展開も。そんなこともありながらもどうにか動かせる首から上を使っての呼び鈴を友達がつけてくれたり、人工呼吸器を搭載した車椅子を開発してくれたおかげで、家族で外出したり海外旅行したりするようになる。医療の専門家が無理だということには新しい発明をするための種が潜んでいるんですな。というか、500頁の夢の束のダコタファニングが暮らす家の寮母さんじゃないけど、世話する側が自らの手間を省くために面倒な事(=やったことがないこと)を忌避する方向になりがちなのかもしらん。んでロビンさんは発明家の友人と共にいろいろ新しい発明したり従来のもんを更新したりして快適に暮らすようになって、呼吸器付き車椅子の普及に尽力していく。その途上で招かれた(んだっけ?)ドイツで、全身麻痺の患者たちが無菌室のような真っ白な病棟でまるで植木のように並べられて首だけだした状態で「世話」されてるありさまを目にする。ここのシーンがまるで管理社会SFみたいでゾッとした。そのあとの演説で自分を引き合いに出しながら全身麻痺でも動いて生きられることを主張したら全面的に受け入れられてたからよかったけども。パンフによるとロビンさんはこういう活動が評価されて国から勲章もらったりしてたんですな。んでロビンさんは60代になるまで生きるんですけど、人工呼吸器を長年つけていると陥りがちな状態(肺の細胞?がちょっとした振動でも摩耗して出血してしまう)になってしまって、しょっちゅう出血するんで、結局はあれは安楽死したということなのかな。この映画のプロデューサーさんがロビンさんの実の息子だから間違ってはいないんだろうけど。なにしろどんな状態に陥っても工夫しだいで人間どうにでもなるんだよ的な作品でした。ちなみにこの映画の宣伝ポスター(映画館のロビーに貼ってあった)にアグネスチャンのコメントがあって、ポリオ根絶まであと1歩!的なことが書いてあって、いろいろ便乗するんだなあと思ってたらオープニングクレジットかなんかで日本ユニセフって出てたのでなんかもやもやしました。ポリオ根絶はいいけどエロ漫画根絶掲げる(まだやってんのかな)のはいいかげんにやめような。上記画像はここから抜粋したブツ。

ウインド・リバーはジェレミーレナー(アベンジャーズホークアイ)がかっこいい映画。話としてはインディアン居留地で起きた殺人事件にFBIの女性捜査官がハンター稼業のレナーと協力して真犯人に迫るというモノなんですが、アルマジロつー映画と同じで「モノもヒトもなにもない砂漠(今作は雪)の退屈のなかでそれ(暴力)が待ち望まれてしまう」状態を描いたモノだった。しかもコレも実話に基づいてるとゆうことでシャレにならん。スノーモービルをかっ飛ばさないと凍ってしまうほどの酷寒のなか、裸足で雪の中数km歩いて死んだと思しき女性の遺体が発見されて捜査がはじまるものの、死因が凍死だと立件できないとかなんとかで難航する。そんな中、死んだ女性の彼氏の名が判明し・・ていう筋。この映画の前にやってたブレスでも肺が傷ついて出血するってやってたけど、ウインドリバーも酷寒の空気を吸い込んでると肺が傷つくかなんかで出血して窒息するシチュエーションがでてくるよ。なにしろ弱い者(真犯人含む)から真っ白な雪に翻弄されて死んでいく(=強い者しか生き残れない)壮絶な環境を描いた作品。ハンター稼業のレナーの雪原を熟知したありさまと、銃を放てば百発百中なのがかっこよかった。

全員が傷ついているのです

『僕はムスリムの家庭で育ちましたが、両親も僕も信仰心はありません。コーランをまともに読んだことすらないんです。ただ、レバノンムスリムは、左翼ムーブメントに属してパレスチナを応援し、僕の両親も内戦時代は武闘派として親パレスチナ・ムーブメントに参加していました。僕の3人の従兄弟は、パレスチナのために戦い、キリスト教徒の民兵に殺されました。1975年に内戦が始まったとき、僕は12歳でしたが、キリスト教徒に対して深い嫌悪感を抱いていました。ジョエルは僕とは正反対に、極右のキリスト教徒の家庭で育ちました。それで、小さい頃の僕が最も嫌悪していたタイプの人間であるトニーと男性弁護士のパートを僕自身が、ヤーセルと女性弁護士のパートをジョエルが書いたんです。かつて「敵」とみなしていた人物について書くことで、僕もジョエルも自分自身を見つめ直す作業をしました。』(「判決、ふたつの希望」パンフレットp.16より抜粋)

『何事にもそつのないレバノン人の多くは、社交の場では宗教や宗派、党派の違いなどまるで感じさせないこなれた振舞いを見せるが、その実、彼らは互いの違いを極めて強く意識している。初対面の者同士は互いの名前や身なり、アクセサリー、言葉の訛り、住んでいる地区によって素早く相手のバックグラウンドを把握し、緊張をもたらすかもしれない言動を回避するよう努める。こういった一種のプロファイリングを脳内で瞬時に行うことはもはやレバノン人としての習性のようなものである。いや、外国人である筆者自身、ベイルートに暮らしていた頃は無意識のうちに同じことをしていた。

 タクシーに乗りこんだらまずはバックミラーとフロントガラスをチェックする。ミラーからぶら下がっているのが十字架のついたロザリオ(まさにトニーの車のミラーにもかけられていた)か、あるいはタスビーフムスリムが使用する数珠)か。フロントガラスに貼ってあるステッカーはマリア像か、政治指導者の写真か、あるいはクルアーンの聖句か。カーラジオから流れているのはレバノンの歌姫フェイルーズか、あるいはナシードと呼ばれるイスラームの宗教歌か。これらの情報をもとに運転手のプロファイリングを行うことで安心して会話に入っていくことができるのだ。』(「判決、ふたつの希望」パンフレットp.20より抜粋)

 『どうしてそれが嫌いなのか、そのことに意識を向けてみてください。「どうやって嫌いなものから遠ざかるか」ではなく、それが嫌いな理由を探してください。嫌いな理由はあなたの内側にありますから、それはあなた一人で解決がつきます。嫌っている原因が見つかったら、あなたはもう二度と逃げ出す必要がなくなるのです。』(加害者より抜粋)

リグレッション(16日。武蔵野館)→ヒトラーと戦った22日間(武蔵野館)→判決、ふたつの希望(シャンテ)と観まして、判決、ふたつの希望は工事現場で仕事してたら隣のアパートのベランダの排水管から水が直で流れてきて濡れるんで、アパートの主には何も言わずに勝手に新しい排水管を取り付けたらそれに気づいたアパートの主(トニー。キリスト教徒)がなぜか怒りだして新しい排水管を壊してしまう。それをみた工事現場の監督(ヤーセル。パレスチナ人)が悪態をついたもんだから更に怒って工事現場監督の所属する建設会社の事務所に乗り込んで監督当人から謝罪するよう求めたところ、トニーの経営する自動車の修理工場に事務所所長といっしょにヤーセルがやってくる。所長はヤーセルが難民で不法就労であることを知りながらも真面目で仕事もできるヤーセルを擁護したくて場をおさめようとするものの、怒りでカッカしてるトニーはヤーセルに暴言を浴びせてしまい、カッとなったヤーセルはトニーをぶん殴って肋骨を折る重症を負わせてしまう。トニーはなんで排水管を壊したかというとそれを取り付けたヤーセルの訛りに気づいたから=パレスチナ人と気づいたからで、日頃からパレスチナ人出て行け的な人の演説を仕事中にも見聞きしてるほどの極右思考の持ち主なのも手伝っておさまりがつかなくなっちまったんですな。ヤーセルをカッとさせた暴言つーのも(パレスチナ人難民キャンプでの虐殺を指揮した)シャロン(元イスラエル国防相)に殺されてればよかったのにな!ていう内容で、簡単に言えば「死ねばいいのに」ていうアレです。当然ヤーセルは謝罪なんかするわけもなく、暴行されたトニーは弁護士のとこいって告訴することになるんだけど、トニーのほうの弁護士は賠償請求に躍起になるし、ヤーセルのほうの弁護士は人権侵害を主眼に置いて戦おうとするし、パレスチナ人に謝らせたいだけのトニーの思惑から離れて事が大仰になっていってしまうという話。傍聴席でも暴言が飛び交い、マスコミに取り上げられてからは暴動が起きたりトニーに嫌がらせが頻発したり、悪目立ちに危機感を抱いた建設会社社長によってヤーセルが解雇されてしまったり、社会的におさまりがつかなくなってるのをみた大統領が二人を説得したりといろいろ起きるんですが、それでも謝罪には行き着かない。ただ、周囲が大騒ぎに発展してしまったのに嫌気がさしてか、車のエンジンがかからないで困ってるヤーセルをトニーが助けたりと少しずつ冷静さを取り戻してゆく二人。そんな中、トニー側の弁護士がトニーの過去までほじくりかえした結果、トニーがパレスチナ人を憎む原因が明るみに出る。トニーは幼少期に住んでいた所でパレスチナ人たちの襲撃に遭い、命からがら父に抱えられて逃げた過去があった。映画の序盤でトニーの奥さんが引っ越しを提案するものの、まったく受け付けないトニーには拠点を移すことに対するわだかまりがあるからなんだろうか。お互いの似た出自がわかったところで、ヤーセルがひとりでトニーの仕事場にやってきて「歯やられたら歯で済ませときなさい」的な決着をするのがよかったです。男は拳で語るのか!と一瞬思ったけどあれ長引いたらまたケンカになっちゃうからな。あと物語中に「中国製じゃなく純正品がいいよ」的な国産品バンザイ話が差し挟まれているのはキャラの極右感を増すための演出なのかな。二者対比といえば対決する弁護士が親子であるというのも親子ゲンカ的にカッとなってしまいそうな危うさを演出してるふうなのも面白かったし、あとカッカしやすいキャラのそばに身重の妻を置いて口論さす、てのがDVスレスレ感を想起してしまって冷や冷やしますな。物語的には解決するんですけど、弁護士費用とかどうなったんだろうな。トニーのほう、特に費用高そうだったけど。

ヒトラーと戦った22日間はソビボル(調べたら三大絶滅収容所とかいわれてるのな)つーユダヤ人収容所でナチス兵たちの傍若無人ぶりにはらわた煮えくりかえったユダヤ人たちがナチをひとりずつ殺していって脱走にこぎつけるまでの顛末を描いたものなんですが、いじめっ子が殺しの権利を与えられたらそうなるだろうなあ的な蹂躙ぷりがよかったです。手に職のない女子供はシャワーと偽ってガス室で皆殺し、彼らから剥ぎ取った宝飾品をおもしろ半分に身にまとってはしゃいだり、よい戦利品を渡すと褒美としてコニャックを差し出されるもののユダヤ教の戒律で酒が飲めないと正直にいうと俺の酒が飲めねえってのか!むち打ち25回!数えまちがったら最初から!だの、この切り株を5分以内に切れなかったら10人にひとり銃殺な。(脱走者が出ると収容者全員をひざまずかせて10人にひとり銃殺していく見せしめが基本)だの、ちょっとした理由ですぐに銃殺するもんだからみんな震え上がって脱走をクチにすることもできない。そんなときにある小屋で女子がナチス兵に強姦されそうになって、とっさにそばにいた男がナチス兵を首り殺してしまう。それに着想を得て「誘惑で釣って殺す」作戦を決行することになり、ナチス兵それぞれの好みを知り尽くした人がおとりの皮コートを餌にひとりずつナチをおびき出して殺しはじめる。んで殺して奪った銃でもって常駐しているナチス兵を殺して脱走する計画が実行されるわけです。これはすんなり行われたわけでもなく、なかには殺しができない人や、殺したことでトラウマを負ってしまう少年などもいる。んで計画実行日には正面突破で脱走するのだが・・ていうのが大筋。クリストファーランバートの鬼畜ナチス上官ぷりがなかなかハマっててよかったです。

リグレッションはイーサンホークが小娘に振り回される映画。悪魔崇拝つったら顔面白塗り黒フードで!小動物や赤ん坊を切り裂いて!食ってー!!ていう画ヅラを刷り込まれてうなされる人続出してFBIまで調べてたんだけど・・的な話。悪魔祓いを詐欺稼業としてる男が最後にリアル悪魔に出会ってしまうなんとかいう映画のが面白かったな。

「被害者をやめる」てのは宇宙エネルギーさんのすべてを受け入れてあげれる状態になるってことなのね

『両極を学び、両極を体験することによって初めて真ん中、すなわち無極(ニュートラル)を知るのです。これまでの永い転生の歴史の中で、人を殺した体験のない人はいないと伝えられました。殺す体験をし、殺される体験をして真ん中を学びます。優しく思いやりのある人間を体験した後は、意地悪で独りよがりな人生を体験して、その両極の中心点が分かります。切れ者で英才を演じた後は、愚鈍で仕事の出来ない役を体験して、二極のバランスを図ります。名歌手を演じた後、次の転生で音痴を体験して、ねたみの気持ちを味わいます。真ん中そのものを体験することの出来ないこの世界で、二極の両極を体験することによって真ん中を知ろうという筋書きのようです。』(遍在するものへより抜粋)
・基本的に地球上のもんが滅ぶのは生み出す無限循環を上回るペースで獲っちゃうのが原因だそう。資源は無限にできるのだけど、それが生み出されるペースはわりと遅いんだよ。「無限にでてくる=生み出されるペースも使うのを上回るほど早い」的な考えを自動的に抱いちゃうあたり傲慢かどうかすら自覚できなくなってんのな。あと無限生み出しを上回るほど使ってるのに加えて「(資源獲った時に)感謝しない」「(絶滅しそうなモノを)救いたい的な人の願望実現さすために宇宙エネルギーが適度に滅ぼしてる」がコンボで畳み掛けてるあたりが追い打ちかけてるぽい。
・毎月恒例の生理痛がきたんで、痛みに意識を集中さしてみたら「傷ついた記憶」がいっぱいでてきたよ。へんなことされて、それにうまいこと対処できなかった口惜しさとかいろいろ絡み合ってたよ(1つの感情じゃないから複雑なって痛いのね)。きちんと向き合うと痛みがなくなるのな。しかし自分ではその経験に関して傷ついたとは自覚しとらんかったな。実はトラウマなってた模様。わし我慢しちゃうしなー。なんかさ、いろんな霊がおいらのからだのあちこちに入り込んでてわがままゆったりするんだけど、それと同じで自分の体に起きる「痛み」てのは自分の心がなんらか訴えかけてきてる証なんだな。ツラいよ!うわーんていうかんじの。あの経験ツラかったな、て向き合いながら痛い部分をなだめてあげるとやわらぐよ。このツラさに向き合えてないよー!ていう信号があらわれてるのね。恐怖てのがそれと認識できないほどにアチコチに刺さってしまってるふう。
・宇宙エネルギーさんが仕事を促してくるままにやってると「すんなり循環」が起き続けるのをこれまで実感してんですが、時間や状況をまったく勘案してもらえない…というかコッチの常識とは無縁のアレなので、マジに思い込みを全部捨ててあたらないと循環が即断ち切られるかんじがする。なので今んとこ就寝時間とかがムチャクチャだ。でも体こわしたりはしてないな。精神的にもこれ以上ないほど安定してるし。ふしぎだ。自分の手がけようとしてるコトが「(宇宙エネルギーから)もたらされた仕事」となんらかの恐怖心から「やらねばならない」と思い込んでの行動のどちらなのか、すぐに判別つけられるようになるといいんだがな。いまだに「宇宙エネさんの持ってきた仕事」を差し置いて「タダ券あるから使わなきゃもったいない!」て恐怖心のほうを優先させてしまいそうなときがある。そんなときは木フダの神仏像がうなづいたり首横に振ったりして教えてくれるんだが。ありがたいことこのうえない。彼らが来てくれてなかったら気づけなかった案件だらけだぜ…。いなかったら気づかずにぐうぐう寝ちゃった日がいっぱいあったろうな。あと大体これに沿ってるのでギリギリ認識してはいるんすけどね。神仏もがカートグラフィ進行に沿ってるとこみるとアレ自体がガチなんだな。あの法則よく見つけたな創始者の人。津留さんレベルにすごいぞ。ぜんたい否定されたと思い込むことでそうなってしまうあたりの鉄壁の平等ぷりを誇る宇宙エネルギーさんを使いこなすに赤ん坊さんの精神状態がベスト、つーことです。中道と空は赤さんが体現しているのだな。そういえば体の痛い部分て、なだめだしてから気づいたんだけど、自分のなかの赤ん坊さんが泣きわめいてるのをいたわってあげてるふうなかんじだよ。
・霊能者さんにありがちな人助けを止められなくて体こわす、てのはその時点で二極思考にがんじがらめになってるてことですよ。まさしく他人は自分のバランス悪いとこを教えてくれる鏡なんだな。その都度わいてくる感情味わう(過程)のが大事なのであって「どういう人になるか」(結果)がゴールじゃないんだよ。どんな状態でも尊いんだよ。とりあえずそんなことしたらいけないて考え方をしなくなるとちから縦横無尽に使えるようになるみたい。自分をむきだしにすることで相手自身が内観する機会を生み出す件もセットでドゾ。すべてが学びになる仕組みのなかでは迷惑なんて存在しないんだね。ちなみに「神のすがた」はどんなもんかというと、現世で生きてる人間全部を合わせたふうなもんみたい。いろんな姿になっていろんな立場を経験してんだな。地球上にいる数十億の分け御霊についてすべての観点が尊いと気づくには二極ぽっちの考え方じゃ足りなさすぎるしねえ。コントのネタだとか諷刺を許せず消し去るまでやる人、てのは「結論がすべて」(=たどりつくべき「真実」以外は間違ってる)と思い込んでるんだろうな。苦しみをたんのうするために必要な思考構造なので、結論は1つきりと思い込みがちなのはしかたないんだけども。結論を得るために生きてるんじゃなく、いろんな立場からの意見をたんのうするのが目的なんだよ。ちなみに美食漫画の作家さんは恐怖を捨ててからもういちど福島を体験しなおしてみるのが必要なんじゃないのかな。この件の問題は描き手が「恐怖に駆られた精神状態」でしか物事をみてないことだけ。でも件の作家さんが「恐怖を捨てられてない」状態なのが鼻血だした漫画で表現することによってわかったからよかったじゃん。「描くな」「載せるな」を是としたらこの作家さんがどういう精神状態なのかすら知られることもなかっただろうし。「いいor悪い 」の観念を捨てないことにはその立場にたどりつけんよ。対処法については大方触れたけど、何も通じない人にいくらゆっても意味がないからやめるよ。昨日漫画弾圧が推進されてるのをニュースでみながら、目前に楽園の扉があってもいがみ合うのに夢中で気づかないんだなーとしみじみした。苦しみを体験するための否定循環をつづけるかぎりはミロク世から遠ざかってくのに。地獄を選んだのね。表現の自由が条件付きになった時点で次の世界に行かない表明してたも同然だったのかもしらんが。仕組みを明かされてさえ疑い続けて「他者を否定しながら互いを食い潰すのが正しい」とばかりに恐怖で自滅してゆく神の姿をしっかり目に焼き付けようと思います。これまで読んでくれてありがとう。いろいろ書けてたのしかったよ。
 
日記 おわり

「〜しなければならない」がヒトをバカにしてる件

『他人と競う必要がどこにある。天恵は無限であるぞ。無限に生きとし生けるものすべてが、何不自由なく暮らしていけるよう仕組みたのが、この地球ぞ。無限に循環する仕組みぞ。無限なる天恵を、なぜに有限と決め付けるのか。』(火水伝文より抜粋)
・資源たりなくなるんじゃ…て恐怖に駆られて行動してるとたりなくなるらしいんだが、資源使うごとに感謝してれば無限に増え続けるみたいよ。戦争がはじまる理由の根本には資源枯渇への恐怖心があるんじゃないかと思うけど、そのテの思いがまま資源枯渇をまねくみたい。恐怖を捨てて資源への感謝をしはじめないことには資源はへるいっぽうなんだな。領土獲得に躍起になるのにしろ兵器捨てれないにしろ「他者への恐怖」が根源になってるんだろうけど、その恐怖抱えてるかぎりは恐怖感にまみれた現実ばかりを宇宙エネルギーが実現させてってしまうよ。企業内で突飛なアイデアが潰されがちなのも「失敗したら…」的な恐怖心からなんだろうけど、まず恐怖を捨てないことにはそれが活かせるもんかどうかも判断することができんでしょ。世の中で問題と思われてることって大方は無用な恐怖に勝手に囚われてるだけぽいよ。
・「しなければならない」て思い込んで渋々やってる事ではほんとの才能がだせずじまいで終わるくさい。そもそもの心根に義務感やムリヤリ感しかないから、宇宙エネルギーは個々に備わる喜びをいっさい感知せず「義務で仕方なく…」的なくたびれきった現実を淡々と叶えてくふうになるんだな。そうなると永久にくたびれた灰色の毎日と、そこから派生するつまらん結果の循環しか起きんわけだ。ストレス解消にチカンしたりイジメやったり、てのが横行してる部署だとかずさんな仕事ぷりが放置されたままの箇所てのはおそらくそのテの「ヤだけど渋々やってる」的なヒトばっかしになってるんじゃなかろうか。世の中には村木さんみたいな真向きのヒトがちゃんといるんだから、ムリにやる気のでない仕事をやってても誰のためにもならないよ。そもそもの努力のベクトルが間違ってるからいつまでたっても報われないと思う。現世で人間に備わる神仏のちからをまんべんなく使うには「うれしさ」や「たのしさ」に忠実に生きればいいだけでしなければならない(←キリスト教思考そのものな)ことなんてひとつもないんすよ。宇宙エネルギーになにを共鳴させるか、てのがすごく大事てだけで。ウンザリやってればウンザリな現実になっちゃうし、たのしーてやってればたのしー現実になるふうに。究極的には「どんな経験も楽しめる」ようになれば世界中でその循環が起きて楽園的なもんが実現してくことになるんだろうね。ただ宇宙エネルギーさんてのは扱いがちょっとばかり難しくて、二極ありきの欲求を受けると対極要素をちゃんともたらしてくれてしまうらしい。たとえば「人助けしたい」て望みを抱くと、よしきた!とばかりに宇宙エネルギーは「助けを必要とする人(や状況)」を差し出してくるんすな。困ってる人がいなけりゃ助けたい願望は叶わんわけで。ここらへんからすると「平和」を望めば望むほどに「平和でない状況」がどんどん起きることになるんじゃねえのかな。平和を実感するにはそうでない状態でなけりゃわかりませんからね。非道行為にしてもあの世では味わえない苦しみを味わうためにあるらしいんで、この世に生まれついた時点で脳の構造がそういうことをしやすいようにインプットされてるとしたら止めようがないような気もするし「否定をぶつければ否定しか返ってこない」的な教訓にするにはヒドい行為ほどより効果的になるのもたしかではある。痛みにしてもよくよく向き合えば原因がでてくるらしいところからして、ムダな経験はひとつもないんすな。尚、宇宙エネルギーが恵みを与えてくれる前段階でヒトからするとヤバい事案にみえる状況が差し出されたりもするらしいんだけども、なにしろ全部まかせとけば結果的にうまくやってくれるらしいです。
これ遊就館が戦犯礼賛してるのと同じね。どの国も「自分じゃなく他人が悪い」表明をするのには熱心だけども、自分がやらかしたことの検証は避けてしまうものなんだな。反省するのってむずかしいよね。反省したことない側が反省求めても自分の態度跳ね返ってくるだけだろうし。やらかしたことを反省さす構造について裁く人がどうこうより「加害側に検証させる」を中心に置くシステムにしたほうがいいと思う。ちなみに人を裁く自体が(自分がなぜそう感じるのかに向き合わなくなるので)責任放棄そのものなんだそうです(5/12追記)。

負け戦こそ楽しいんだよ

『集合意識としての私がこのゲームを始めた張本人であったことを思い出すでしょう。貧者は私が創りだしたのだという事が、病の淵で喘いでいる人は私が産み出したのだということが。経済的苦しみに疲弊した人を、独善的に人の頂点に立とうとする人を創り出したのは私以外の何物でもなかったと・・・。でも安心して下さい。自分を咎める癖のある人や否定的なあなたはこんな事を思い出すことはありませんから。全く自分を咎めることの無くなった人だけがこの事実を思い出します。でないとあなたの自我がその苦しみに耐えられないからです。どうぞ自分を信頼し、自分の宇宙を信頼して下さい。あなたこそが「私」であったことを思い出すでしょう。そして「私」とはこの地球には一人しかいなかったことがわかります。「私」とはこの宇宙に一人しかいないのだという事に気付きます。あなたこそが宇宙に存在するただ一人の「私」です。あなたこそが宇宙生命です。』(空想と現実より抜粋)
被害者となったら加害者を責めることが善、責任も負わなくて結構ですヨシヨシ、みたいにされてるけど、これまで見てきたかんじからすると、その考え方が原因で問題解決から遠ざかってるようにしかみえないんだよな。蛮行三昧のテロリストにしてもテロリストとなってしまう原因解決について何も書かれずテロリストを悪者扱いしてるし、麻薬の密輸が増えてる件も根本にある貧しさの改善よか「犯罪者」をどうかすることが全面に出されてるよね。「自分の心を傷つけられるのは自分だけ」ていうふうに、自分に起きた出来事すべての責任を負うこと他人のせいにしなくなって犯人探しよりも原因を知ることに重きを置くようになるらしいのだけども、その精神性が無視されてるのはなぜなんだろうか。そもそも人間がなんで現世に生まれてるかってあの世じゃできない経験をたんのうするためなんすよ。不自由のなかでないと自由が味わえないという仕組み「ダメな経験」はひとつもないし。いじめにしてもそれがなきゃ「乗り越える」イベントも発生しないわけ。不幸がなきゃ幸せが発生しないのと同じで。虐殺死刑を経験すれば「平穏無事な生」がなによりの幸福になるだろうし難病のヒト看病するヒトは健康な状態が、体の一部を失ったのなら五体満足であることから幸福を感じるための前段階になるんだと思う。そのぜんぶ、あの世では肉体がないから経験できないんだよ。不快さは現世でしか得られないわけ。死後のことなんかどうでもいいだろ!とか思うだろうけど、自分の人生について「自ら望んでない不遇な生」と被害者感覚満載に捉えることでどれだけの人生差別を生み出してきたと思ってんの?その考え方こそが「あの人生はよくてこの人生はダメ」なんていう偏った観念を助長してきたんだろうが。「人が平等というなら意見もすべて等価」「この世に上下はない」て前提を置きながら戦争殺しを貴重な経験だと胸張って言えないのは「殺しや戦争はあってはならない経験」と思ってるからなんでしょ。苦しみをより多くかんじることこそが望みて観点からすればさっさと死なされた人はあの世で悔やんでるかもねえ。殺人事件の訴訟なんかで賠償金払わす判決がでた際に「これであの子も浮かばれます」とか言うけどカネむしるのと成仏したかどうかって別のことじゃねえのかな。原発が原因で避難生活おくるのや冤罪だってあの世じゃ起こりようがないでしょうしね。死んだあとになってもっとしっかり経験しとけばよかった…!つっても遅いんスよ。現世では被害者きどりでカネせびるのに忙しくて苦しみをたんのうする気持ちなんざビタ1文持てない社会体制ですからねえ。それと戦時のツラい経験を差別視するあまりに「カネもらわないと気が済まない」みたいに思い込ますってのもどうかと思うよ。人生経験をカネで済ます、て人身売買と同じだろ。それで満足するってどんだけ下卑た発想なんだよ。賠償金担当の財団理事長はやっぱり罪人概念ありきのキリスト教系のヒトなのなあ。この世でのすべての出来事あの世からすると娯楽だなんて言ったら激怒するかな。お金だした企業てのも「ナチスドイツを払拭したい強い動機」だった、てことは「戦争おこした連中と自分はまったく別の善人」てアピールしたくてやってるようにしかみえんのよね。「犯罪者」を切り捨てる思想を基になされてるでしょ。あと被害者のことばかり語るのはなぜなの?戦争おこした側のことがまったく話にでてこないよね。お金もらったあとでなぜあんなことをするに至ったのかを考えてる被害側ってどれだけいるのかね。もらったらそれで済ましてる人が大部分なんじゃないのかしら。なんで「被害者」側だからって出来事の責任負うことから自動的に免除されるんだろう。この経験をした人はすべて責任放棄してかまわない、て、それこそ原因から目をそむけることにつながってしまうんじゃないのかなー。つまりその経験は「してはならない」と世界中で思われてるってことだよな。「裁かれねばならない」て考え方自体被害側の責任放棄加速させるだけなんじゃないのかなと思えてならんのだよね。被害側の人はずうっと「他人が悪い」て言い張りつづけるんだろうか。「苦しい」経験に出会うたんびに被害者ぶってたら不自由である状態を望んでこの世にきた、て考え方には永久にたどりつけなくなっちゃうんじゃなかろうか。無条件の愛を実行するには被害者でなくなることが必須だそうなんですけど、そうなると被害者ぶってる人は無償の愛すらも持てないってことなんだな…。なんか無条件の愛が実行できないのは人に優しくできなかった記憶が原因になるらしいんですけども、加害者に対してはささくれだった気持ちしか向けられなくなるでしょうしね。被害者ぶることでムリめの課題をいろいろ負ってしまうってことなんすな。二極思考を軸にしてると差別が生み出されてしまうところからしてごく自然な成り行きではあるのかもしらんけども。人種差別のヒトじゃないが排除しだす人は他者に理想を求めすぎてる(=自分を変えようとしないので永久に理想は達成されない)あたりからして、二極のうちの一方の役割を負う自覚を持ってしまったことから差別から抜け出せなくなっちゃうのかもしらん。ちなみに答えが1つきりと思い込んでると自分の意見に自信がもてなくなる(=不完全な自分から発される意見は劣っている)そうで、唯一神大好物のキリスト教信仰のヒトは精神的にくたびれていそう。自分は劣ってるから優れた誰かにすがればいいてのも責任放棄そのものすな。たとえば超人だとか天才だとか神だとか?そういうもんを生み出すのは「自分ではどうにもできないから」ていうハナから諦める前提の心根からなんだな。自己否定を抱きながら他人批判するといずれ自分にかえってくるそうですけど、あらかじめキリスト教にゆるしてもらわないと生きていけない的な思想に染まりきってる、てことは批判の応酬が永久に止まらない運命であることを示唆しているのであろうか。ちなみに否定されたと感じるときは自分が否定したときであって拒否におびえるかぎり拒否がなくなることがないのだそうですよ。そもそもの拒絶根本原因には傷があるだとか沸き起こる感情は自分が断罪した情報から派生しているとか、拒絶の継承については並べだすとキリがないですけども。自分を責める心をもってるかどうかが他人という鏡によってようやく把握できるんすなぁ。他人を自分の分身とみなせばどんな意見を持ってても尊いと思えてくるのかもしらん。そういや前の勤務先で夫人から裁かれまくってたけどてきとうに受け流してた。「あるがままを肯定する」が 観察者としてあるべき姿勢らしいので一応正解だったのかな。 カッとなるネタこそが自分のバランスとれてない箇所てのと他人への評価自分の欲求を表しているてとこからして夫人はいろいろ限界だったのであろう。わがままさんに怒りをやりたい放題させとくとそのうちおさまってくるてのは実証済。要はコチラがぐらつかなきゃいいんすよ。相手はさんざんわめいてるうちにくたびれてきてやさしくなるよ。わがままを抑えようとするのは人間関係上での軋轢に怯えてる証拠とのことで、その怯えさえなくなれば自由奔放に生きられるようになるわけだ。被害者ぶってたらたどりつけない境地だねえ。とりあえずこの世対極にある要素がバランス取ろうと働く仕組みになってるらしいので、二極のうちの一方望む片割れも自動的にもたらされてしまう(真逆要素がないと喜びがもたらせないためらしい)とか。快適さを求めるほど不快の種も増幅するて考えれば、おばさんから命令されるままエロ雑誌をなくすことで差別のキツイ社会になってくのと似たようなもんだろうか。人間社会の尺度なんぞ宇宙エネルギーにとってはどうでもいいためにヒトが抱いた気持ちを片っ端から叶えてしまうので、その宇宙エネルギーをうまいこと使いこなすためにはクダクダ考えるのはむしろ邪魔になりやすいらしい。自己嫌悪に陥ると自己嫌悪像のままの自分になっちまうし自分の欠損部を気にしすぎたり心配ごとばかり抱えてると、心配ごとに悩まされる自分が実現してしまうとか。世話を必要とするヒトがたくさんでるてことはつまりそんだけ「看病したい人」がいる、てことなんすかね。地球救う願望もつヒトのために地球さんが救われるのにちょうどいい病み方をしてくれるてのはなんか可愛いな(ちなみに資源たりないと思えば思うほど足りなくなるらしいよ。有限と思い込むホドに争いが激しくなるのは恐怖に駆られてのことなんだろうけど)。宇宙エネルギーを利用する上では過去に感じたうれしさ幸せだった記憶に浸るほうがその感覚が増幅されて返ってくるようになるらしいので、言葉でアレコレ願うよか想像や記憶を働かすほうがいいっぽいよ。ほんとかどうかはしらん。あ…願望抱くにビクついてたら叶わないんだっけか。たのしい心持ちでさえいれば宇宙がうまいことやってくれるてことなんだろうけども、現世にいる以上はうれしいのとヤなことどっちも経験して等しく味わったあとでないと「次」にはいけないらしい。次てのがどういうとこなのかはしらんが。なにしろ神仏は単純に欲求に従ってこの世に人として生まれたそうなのでいいもクソもない(どうでもいいてことなんだろうか)とのことです。ちなみにとはナニかやダレかがなくなっても変わらずあるモノだそうですよ。もとからぜんぶ備わってることに気づくかどうかで精神的には真逆の状態(自分が責任負う=自立・自分の責任放棄する=依存)になっちまうあたりからして、なんだか現世の仕組みてのはすごくデリケートなのかもな。幸せ追求にしても狂うスイッチ的なほうと勘違いしないようにしとくと吉かと。

頭いたい時に痛い部分に意識向けると痛さがアチコチに動き回る時がある


・生理痛んときに映画館行って映画みてる間だけはなぜか痛さを感じなくなるんですけど、あれって脳の「痛さをかんじる部分」と「映画に集中するときにつかう部分」が同じとかでなのかな。家でDVDとかテレビみるだけだと痛いままなんだけど、映画館いってみると痛さが気にならなくなるんだよ。その脳の部位の切り替えを自分で出来るようになれば痛み止めいらずになるなあ。霊能力者はふつうにできるのやもしらんが。映画みるときに稼働する脳の部位、てのは「みる」つながりで霊が視えるようになる部分と近しいんだろうか。視えるヒトが霊を避けて通ろうとする(そういえば三巳華さんディスった回は霊を視るちからを欲しがるから与えたのに逃げまわってばっかいるのはどういうことだアァン?てのを代弁したつもりだったんだけど伝わったろうか)てのはヒトに受け入れてもらえなかった経験等からいちどは通る道みたいスけど、なんの能力でもその能力でしか出来ないことをするために備わってる可能性が高いんで、避ければ避けるホドに面白い出会いもなくなって「次」に進めなくなるんだろうね。向き合わなきゃならないナニかを放置したままでいると「次」に行けず立ち往生しっぱなしな状態になってヒマでしょうがないから、目立つ人の足引っ張るようなことしかしなくなっちゃうんだろうね(スレで悪口書いてるのは黒ヘビさん関係者なのかな)。逃げずにその都度ヤなことに対処しつづける人はヒマなわけないんだよ。次々にやらんきゃならん課題に向き合わされるから。ヒトの未熟さを笑うのが未熟だったころの自分を嘲笑するも同然なように、大抵の悪口て対極にあるブツがなければ存在できないたぐいのもんばっかしだからディスることで是とする側もけなしてるようなもんなんだよなー。
自分に都合よく従う相手を探してる人にとっては「かわいそうな人の世話をしたがる人」が鴨にみえてることだろうな。「かわいそうな人」のわがままならなんでも聞いてくれるあたり。従わせたい人はヤなことから逃げるために下僕がほしいんだろうし、かわいそうがる人は自分の問題に目を向けずに済ましたくてやってるのだろうから、双方が「逃げ」の心理で合致してるわけが。誰かをかわいそうがる、てのは「自分はかわいそうじゃない」て前提でやってるからバカにされてるのと紙一重なのでイヤがるヒト多そうですけどねえ。大抵の人間関係では「自分を変えれば相手も変わる」んだけども、いくら自分を変えても相手が変わらない場合は「ふつうのヒトには直すのはムリ」なほど性根がねくじれてるのかもな。そういう場合は神仏が関係を即切りすることを推奨したうえで必要とあらば「改心するに必要なだけの痛み」を与えるのかもしらん。仏教説話でよくある「怖い目に遭わされて改心する」的なのは痛い目に遭わないと自分の欠点を自覚できない性質を神仏側がよくよく把握したうえで必要なだけの「痛さ」を与えるからできることなんだが、個々の「痛さ」限度すら把握できん人間がやってもただの暴力になるだけなんだよな。改心さすに必要な痛みじゃないが対極のモノに生まれ変わる(霊のヒトに聞かないと真偽不明)ことを繰り返してくうちに凝り固まった考えがどんどんほぐされてったりするんだろうか。一時的にどっかにいってるだけの神社仏閣で祓った穢れが海で浄化されていつしか帰ってくるように。
これといい、霊方面でいかがわしいもんがブレンドされるとなぜか猿っぽくなる(経立は別モノ?)のはどういうわけなんだろうか。ヒトではないナニか、てのを象徴してのことなのかな。その猿っぽいもんが出てきたこの穴空也がいた時代あたりの権力者が「賤」として排除したヒトたちを怨霊に仕立て上げて使役する目的でつくったんだろうか。怨霊を単なるエネルギーとしてしか認識してない人は道具にするために殺すなんてことも平気でやっちまうんだな。証拠隠滅&共犯にするために周囲の人間に遺体の肉を食わせちゃうのと似通った冷血っぷりだ。あのブラックホールじみた穴から出てる手はつかんだもんを引き込んで食べたりすんですかね。霊の世界に於ける「食う」てのは現世での意味とはちょっとちがうみたいなんだよな。狼が狐を食う(ことで狐は解放される)らしいけどきつねたんが魄を食べるとその魄も解放されるんだろうか。明王さんが不浄を喰らうのや獅子が火を食うのと同じく。死んだヒトの霊が現世を離れる前に食べたいモノを求めてくることがあるらしいけど、その「食べる」は前述の解放のために「食う」とはまたちがった意味なのかな。五感ネタといえば小野照さんのにゃんこがおいらの子宮らへん(股じゃないよ)のニオイをしきりにかいでたんだが、ねこは「かぐ」ことで中にあるモノを検分してんのかな。気配をかんじとるのにニオイが役立つ件からしてもその可能性大。上記「もうあるんです」画像じゃないが…そういえば寺に遊びに行って観音さん(いまんとこ確認済なのは聖観音・千手観音)の前いくと、なんか…むかって右側の目(相手の左目)の瞳がおいらの右肩あたりをみつめながら、なにかを読んでるみたいな動きをするんですよね。もしかしてまだ書いてもない日記を読んでる…?のかな。如意さんの生まれ変わりさんも、足に入り込むときはなんだか瞳だけが動いてるんだよ。なんらか読んでるふうに。なんだろな?近日にやりそうなことは霊界ではすでに完成してるってことなんすかね。よくわからねえなあ。相変わらず霊の世界のシステムは全然わかんないよ。現世のヒトがどんなもんをつくるのかがあの世ではだいたい見当がついてて、それをもとに「偶然」的な出会いをアチラで仕込んだりすんですかね。ちなみに寺尾さんと視子さん阿弥陀さんのパシリじゃね。
あつかましさも個性な件じゃないけど、なんか…中道の考え方て差別的(とみなされがちな)考え方のたもとに埋まってたりするんで、怖がりだったり痛がりだったり、守らなきゃならんモノをたくさん抱えてたりするとよけいにたどりつきづらくなっちゃうのかもな。そういえば日本列島が真っ二つにならないように祈って欲しいてトランブレーさんとこで再三でるんだけど、ナニがどうなってまっぷたつになんのか、それをどうかすると防げるのか、こまけぇことがなにひとつわからん上それを憂う神仏にしても「まだ間に合う!」とか宝くじはお早めに!なノリで急かしてるし、なんともいいようのない事案だな。おそらくそれが防げたとしても目にみえる成果みたいのが一般的にはまったくわからんことから助力してくれる向きてのも限られてくんだろな。
このテの玉とかってもしかしてもっとちいさくて、ヒトによっては足のくるぶし付近に入ってたりすんのかな…。ちょっと前までそこらへんにちいさいふくらみが2ケほどあったんだけど、今はもうない。

敗北した側を善とすると妬みも善となってしまう件






相手の言動を取り消させようとする人てのは「傷つけられた」腹いせに原因となった存在を抹消(=屈服)さすことで怒りを発散させようとしてるんだろうけど、自分の心の状態を変えられるのは自分だけなので、いくら他者を消し去っても自分を変えないかぎりは永久に傷ついたままだと思うがな。ここらへんからして「傷つけられたくない」てのは「自分を変えたくない」て言ってるようなもんだよね。自分が考えを変えさえすれば大抵の悩みはなくなると思うけど、その心の安定基準を自分じゃなく「キリスト教」の教義とすることで「キリスト教に許されさえすれば心が安定する」のだと思い込ませてきたんだな。なんつーか自分自身の心の安定に対する責任を自分が負わず、キリスト教に丸投げしさえすればよい、的に思い込ますことで信者集めをしてきたというか。キリストが自分らの責任をぜんぶ負って死んだんだー!的に責任放棄思考を正当化さす手法が客寄せになる、て気づいたヒトがすごいよ。総本山が是としてきたキリスト教思想中の「地獄で死を生きるべく決定された罪人たち」てのは「法王庁が許さないかぎり許されない(=自分ではどうにもできない)」と思い込んで勝手に苦しんでる人たちで「天国に永遠の生をゆるされた、祝福された魂」つーのは「すべての人は生まれながらに祝福されてる・悪人などいない(=自分次第でどうとでもなる)」と気づいたヒトのことなんだろね。「バカものの天国は地獄より危険」とか書いてあるけど絵をみるにつけ至極平穏そうで、逆に天国(=生まれながらに祝福されてると気づいた状態)を避けさせたくてゆってんのかと思ってしまうよ。そんな思想が横行してる中でもヒト以外のもんの描写も手を抜かなかった画家たちは教会側の意向とは関係なく森羅万象の平等を自ずと表現してたり哲学者なんかも平等理念をだしてたというのに大元に「罪人はキリスト教会が許さないと許されない」的な発想があるもんだから、結果的に分裂した状態で適用されたりしてるのなあ。キリスト教のねじまげ具合についてさんざんカキましたけども、上記にだした画像の説明から察するに、欧州の西側あたりでは昔いろんな人種が入り交じった状態で、おそらく思想も文化もごたまぜだったろうから、それらをひとまとめにして納得さすにはキリストの教えをねじまげてちからづくでどうかするような思想をつくりだす必要があったのかもしらん。荒くれがひしめいてる地域では「オレが許さなきゃお前は許されない」くらいしないと反省させらんねーから、てことで人間性を根こそぎ否定するレベルの教義を編み出さざるを得なかったんだろうね。あつかましさをフル発揮した後に発生するうしろめたさをどう処理するかとか、あつかましい人を反省にたどりつかすにはどうしたらいいのか、てのに頭を悩ませた時の支配者が、即効性があって克ついちばん激烈な手法として「あつかましい人はすべて罪人」的に人間性否定しちまう=ひれ伏させる(ことで「あつかましくない」人の卑屈な心根を満足させる)ことで穏やかさを推奨していったのだろうけども、それって人間に備わった暴力性やあつかましい個性の否定であって、差別そのものなんだよね。あつかましい人を罪人呼ばわりするのを聞いてほくそ笑む思いを抱いた人がキリスト教の信者になるんだろうな。それと暴力ダメつーけど、天下統一した家康だって原爆落としたアメリカだって暴力で平和つくりだしてんじゃん。暴力循環ばかり起きていっこうに平穏をもたらさないハンパな暴力行為が問題なのであって、平和をもたらすきっかけとしての暴力は必須なんじゃねーの?神話でも神仏てあつかましい同士で戦ったり、領土とったりとられたりしてるんだよね。じゃあ領土ぶんどられていいのか!つーけど、他国の植民地になったとこで繁栄してた香港だのインドだのって「むしろ統治されてたい」ふうだったしな。領土を取られる自体はさして問題じゃなくて、その後に平和統治してくれるかどうかがいちばんの問題なんだよね。なんか…これまでのキリスト教思想からすると「領土ぶんどるようなあつかましい人」を罪人視するのを推奨してたっぽいんだが、それって領土とられた後の支配内容についてなにも考えさせなくするよね。「失敗を遠ざける理念」が失敗後にどうあるべきか何も考えさせなくするようにさ。権力者側は市民から反発くらうなら自分の政策がハンパな証拠だし、市民側は権力者に無視されるようならそれは自分らの言い方が悪いんだよ。「反発されんような仕事をする責任」と「無視されないような声のあげかたをする責任」をそれぞれが果たせばいい話。自分がうまくできないからっていちいち権力者や市民を憎んでたら、いつまでたっても自分を磨くところまでたどりつけなくなっちまうよ。相手が動かないなら動かすような言動をこちらが仕掛けるほかないんだよ。そうやって責任を各々がちゃんと負う精神性があればこそ、上記画像の「敵をつくらない勝利」が実現されてくんじゃねーのかな。そういう爽やかさって罪人を許さないとするキリスト教思想からは生まれようがないよね。領土とられて文句いうのもさ、後手に回った人の負け惜しみなんだよな。先手打てなかったことに後から文句ゆったってはじまらないよ。学校での勉強てそうやってうまくやるために自分磨きさすのが本来的な目的じゃねーのかね。なにしろ自分の考えを変えさえすれば理不尽なことを言いつけてくる人とだって楽しく付き合えるようになるんですよね。あつかましいヒトを穏やかな性質にねじまげさす必要なんかないんだよ。あの性質は善でこの性質が悪だなんてそんなバカあるか。この世にあるもんはすべて尊いと言えない時点でじゅうぶん差別的だろ。
ところで永久保さん夫婦とその周辺をしきりにディスってる人のたむろするスレがあるんだが、永久保さんが気になってしかたがないんだな。マジに嫌いだったら俎上にすらあげたくないてなるはずなんだが。この前のホンマでっか特番で悪口ばっかいう人は対象のイイとこもたくさんわかってるんだってやってたなあ。逆にホメてばっかいる人は心のなかでは悪口が渦巻いてるんだってさ。前述スレで書き込みしてる人は永久保さんの奥さんの容姿と学歴を再三けなしてるんだけども、容姿と学歴の良さを是とするのってバブル期の価値観だよね(イケメンで高学歴ならけなさないって優生思想じみててキモいな)。おいらなんてどっちもねーから仮に有名人なったら総攻撃されんだろな(笑)そういやおいらの通ってた高校て3B(バカ・ブス・仏教←笑)で有名だったからその点自信はある。永久保さんの絵については最近のが洗練されてると思うがなあ。シンプルでいいよ。まあたまに顔が崩れてたりするけど。脂がノッてる時期から外れた作品がイマイチなのは歌手でもなんでも同じなんでそこディスってもしかたないと思うがな(そもそもおいらと過去世のヒトビトが永久保漫画を介してつながった時点で霊的な意味でも重要な存在であることが証明されてるようなもんだしねえ)。あとアマゾンの客評で「三角形など幾らでも出来る」とか書かれてるけど、ふつうに三角形はできても二等辺三角ができる点てそうはない気がするけど。ところで仏教が女子校格付け的視点からするとマイナス要素とみなされるのって「(お経が)暗っぽい」「正座」「ハゲ」とか、おもにビジュアル面での陰気イメージからなんだろうけど、仏教はハナから備わってるもんに気づかせることで穏やかさを導きだす方向だからヒトにやさしいんスけどね。仏教に否定的なイメージ抱くヒトは単純にセントグレース大聖堂的なビジュアルに憧れて教会での結婚式とかやりたがるんだろうが、そっちはハナから備わったもんを否定するとこからはじまる差別前提のキリスト教思想が下敷きになってるんすよ。ビジュアルイメージと教義内容が真逆なのはなぜなんだ。まー単純に「白っぽいか黒っぽいか」てだけなんだが、人間性否定教義の側が白で覆われてるビジュアルなあたりからして詐欺師が善側イメージだけで固めてるのと似通ったテイストをかんじずにいれませんな。