篠原ともえも似たようなことやってたな

『太郎さんは常々、「人に好かれるようなものは芸術じゃない。いやな絵だ、気持ちの悪い小説だと言われるようなものが本物だよ。芸術家は岐路に立った時、進んで危険だと思う道を選ぶべきだ」と、口ぐせのように言っていた。私は岡本太郎の芸術論に洗脳されて、本気で自分の書きたい小説を書き、散々批評家から叩(たた)かれた。しかしそのおかげで60年近く現役で書きつづけているし、太郎さんの「あらゆることをやる」という思想を受けついで、小説以外にもあらゆることに手を出し、全人間的に「宇宙即自分」という考え方をしようと、今もあがいている。』

・上記『』内は朝日のJACKCHOコラムからの抜粋。擁護しすぎもどうかと思いますがとりあえず深町さんも応援してらっしゃることですし、いよいよ単なるアイドルを脱却してロバートダウニージュニア的な意味でのホンモノの芸能人としての道を歩みはじめたとみなしていいのでしょうかね。とりあえず公然猥褻程度で保護を通り越してソッコー逮捕に至った理由を考えてみました。

 *ちんちんこすってた(含おまわりさんにかけた及び尻を犯した)
 *レイプしてた(ファンor通行人)
 *注射器とか粉とかもってた及び摂取してた(含売人だった)

このどれかがちょっとずつ要素としてはいってるんですね。わかります。巣マップのメンバーが全員醜聞まみれになったらやっぱホモの親分から解散命令とかでるんですかね。ついでに度量を広くもつことのたいせつさを説いてるそばから泥酔した人を頭ごなしに否定して狭い度量っぷりをむきだしにしてる人がなにげにあぶりだされたりもしています。

夢の国は嘘でできてるんだねママン。

黒沢さんが数学の人の件(まなさん経由)みてたら幽遊白書の作者がよく単行本の漫画と漫画の間の頁に自分でつくったパズルとかをのせてて、物語の作り手って計算や数字に強い人がやるんだなあ…とぼんやり思ったのを思い出した。占いの人も基本的に計算とか数学っぽいことができないとだめらしいし。数学脳の人の書いたとおぼしき小説とかパラ見するとおいらにはどうがんばっても書けねえとしみじみ思う。つーか売ってる小説とかみるたんびにみんなどうやって書いてんだろとすごい不思議に思います。正直いってぜんぜんわからん。

表紙に文字がない(深町さん経由)ってすげえ勇気あることだなあ。

・今朝とくダネ!でもやってましたけどこのバラバラ(まなさん経由)目的はなんなんですかねえ。指紋をそぎ落としたり頭部をいっしょくたにしないあたりは被害者の身元が判明しないようにとの策略だけど(結局身元わかったけど。公園の近所に住んでるあたりも意味あるんすかね)、でも公園内のいろんなゴミ箱にちょっとずつ捨てるってのはみつけてくれといわんばかりだし、血を抜いた上で20cmずつきれいに切り分けるってのはそういう機器の揃った場所で処置できるってことでその道のプロが関わってるとしか思えない。わざとみつけられるふうな遺棄のしかたからして「この行いをだれかにみせたい」というのが少なからずある気はするんですが、じゃあそれが特定の人間へのみせしめなのか、もしくは「俺様こんなスゲーことできるんだぜ!」みたいなソディアック的な社会一般に対する顕示目的の奴なのか。どうなんだろう。前にやってた番組では複数の人間が関わってるんじゃないか、みたいなこといってましたけど。どうしてみつけられなければならなかったのかが知りたい。隠したいなら埋めるなり海へ放るなりできたろうに。なんで不特定多数の発見者がでるに決まってる場所へ置くのか。

愛玩動物をたべる教室の件よんでたら柳下さんが朝日の評で書いて人肉食って生き延びた人たちの実話映画がよぎってしかたなかった。野生動物の原理の世界にヒトが放り込まれたらもうそれに従うしか生き延びる手だてがない的なとこが。アメリカの子供キャンプのように「自分も動物である」ということを考え至らすことをポンニの教育者が避けてるのがどうかと思う。生き物を食べるのって襲ってきた奴を反撃して殺すのとまったく同じなのにね。なにしろアライブははやいとこ見に行かなきゃと思ってやきもきしてはいますが、4本みようと思ってるときに1本だけ渋谷や新宿でしかやってなかったりするので異常にこまる。特に新しくできたシネコンてきもちわるくてあんましいきたくないんだよなあ。バルト9とか新宿ピカデリーとかどうしてかマジ居心地が悪すぎていられない。貶めたくて言ってんじゃなく体が生理的に受け付けないんです。あとシネコンじゃないけど乃木坂に新しくできた美術館て行くとどういうわけか腹くだすからいきたくないんだよなあ。あれなんでなのか。パニッシャーマックスペインはぜったいシネパトスやトーアでやるとばかり思ってたのに…。もうどうしたらいいんだ。