表現できない年齢のときほど内側の感情の波が大きそう(だからこそのちに傷として残ったままになっちゃうのか

昨日はベルサイユの子(シネスイッチ)→ミーシャ ホロコーストと白い狼(しね)→デュプリシティ(みゆき座)と微妙に子供受難特集な進行で。ベルサイユの子もミーシャも幼い子供が自分ひとりで生き抜いていかねばならない状況になってしまうものなんですけど、死ぬ寸前までの飢えを経験するともはや獣になってしまうというか。おとなが食べ物を差し出そうとすると「はいどうぞ」とか言う前に目に食いもんが映るやいなやひったくって手づかみでむさぼる状態がふつうになっちゃうんですが、その獣状態になるまでには一応段階があって、慈善団体の無料配布に並ぶ→ゴミあさり→食べられそうなものは手当たり次第に虫でもたべるが日常とかなってくるともうマナーだの人間性だの言ってられないぐらい食べることに血眼になってしまう。スジとしてはベルサイユの子のほうは仕事にあぶれて宿代も食事代もないシングルマザーが自分の子を連れて街をあてどなくうろついてるところへ慈善団体の人に保護されてとりあえず一夜はしのぐんですけど、このテの慈善団体の保護でさえ過去数えきれないほど経験してきたらしき母親は、慈善団体員が善意で口にする「施設で生活できるよう助けてあげるから(質問に答えて)」という問いかけがいかに無意味かを身にしみて知っていて、それは施設入居予約はもうずっと前に登録してるのにいまだに順番待ち(ホームレスがそれだけあふれかえってる)な状態だからなんですけど、そのうえこの母親はなぜか本当の身元を事情があって明かせないらしく、そこらへんからも公共の援助が受けられないゆえんになっているっぽくて、そうしてなすすべもなく流れついたのがベルサイユ宮殿の脇にある森なんですけど、この森がけっこう広大でホームレスたちの住処になってて(創作じゃなくマジでいまもそうなってるらしい)、この森のなかでちょっとマジ考えてみた母親は落ちてた新聞に出てたある仕事についてやってみようと決心して、子供つれて森から出てこうと歩き回るんですけど、迷っちゃってぜんぜん出られなくなっちゃって、そうこうしてるうちに森に長く暮らしてるとおぼしき男の住処に出くわして、一晩いさせてもらうんですが、まあちょっと一夜限りのアレとかあったすえに男を信頼した母親は子供を置いてひそかに自分だけ出てってしまう。彼女としては仕事に就けたらソッコー迎えにこようとしてたんですが、その男の住処もちょっと火事とかなってほかへ移ったりしたんで結局母子はかんたんには出会えなくなってしまうんですけど、男のほうではとりあえず急に置いてかれた子供にとまどいつつなんで俺がこんな!!みたいに荒れるものの、じわじわと母性本能を刺激されてきてアレコレ世話しはじめる。子供のほうも男に微妙になつく。この男はなんか生まれてこのかた働いたことがいちどもなかったんですけど、このどっかの子を大切に思い始めたことを契機に働くことや食べ物の確保をするようになって、ちょっと真人間ぽくなるものの、子供を学校に通わせるとなると男が親として国の機関に登録すること、ちゃんとした住居があることが必須になって、しかたなく疎遠になっている実家に帰ることにする。男は父親との根深い確執がまだ根付いているらしきものの、子供のために頭を下げてまで住まいを確保しようとすることに父親(&後妻さん)も渋々承諾し、ひとつ屋根の下で暮らすことになる。でまあこの後の展開としてはこの子が人見知りなせいで学校でも孤立しがちだったり、子供を連れてきた男自身がまたどっかいってしまって結局親がこの子の面倒をみてくことになったりするんですが、この作品の核は「子供が愛されたがっているのにそれができる人間が拒否して(離れていって)しまう」ということで、なんというかフランスという国だからこそできた作品なのかなーとかちょっと思った。たしかフランスって恋愛に関することがほかよりも比較的自由っぽい(同棲関係でも夫婦関係と同等の国からの援助金みたいのがでるらしいし)反面、結婚したとしても付き合ったり別れたりがたやすくできることになってしまってちょっとイヤなことがあると耐えることなくすぐ新しいのとくっついたりとかしがちみたいですが、それは成人後の男女にとってはいい制度かもしれないけれど、生まれる子供からしたらものすごいストレスを被ることであって、なんでストレスかというと自分の身を安心してゆだねられる相手かどうかわからない人がつねに身近で入れ替わっている状態では安心していられないからだと思う。専門家じゃないんでアレですけど、人間は幼少時のある時期までに親やそれに近い存在の人からたくさん愛されて守られて育つことで、安心感という土台が心にできてはじめて「自分はここにいていいんだ」という生きていることに自信をもつことができて自立していくことができるんだと思うんですけど、その自立の前提となる安心感や愛情を必要としている時期の子供に対して、愛を注ぐべき立場の人間が理由があるとはいえ愛することを拒絶するようなふるまいばかりしてると、子供のほうはたとえ体は成長してもいつまでたっても自分が周囲から拒否されている感じになったり、どこへいっても居心地の悪さを感じて孤独になりがちだったり、人との関係をうまくつくれなくなってしまいがちなんじゃないんですかね。ベルサイユの森から子供を連れてくる男も結局自分の父親との関係に耐えられなくて出て行ってしまうふうな雰囲気なんですけど、これはなんとなく父と子供の物語なのかなーとちょっと思いました。ちいさいからといって甘くみてあしらうと一生こじれたまま苦悩に支配されてしまうという。自分を無条件に愛してくれていた男が出て行ってしまって、この子だけが父親の家に取り残されるんですけど、後妻さんは面倒見もよくてこの子がいることに対してまんざらでもないかんじでなにくれとなく世話はしてくれるんですが、子供のほうが父親と後妻さんがイチャついてるのをみてなんとなく甘えるのを遠慮してしまうんです。ちいさいなりになんか「自分の身をゆだねてふたりを邪魔しちゃいけない」みたいなのをわかっているというか、幼くして天涯孤独の状態だというのにおとなに対して渇望してる愛情を遠慮するシーンがなんかすごく痛々しくてかわいそうだ。この子を見捨てて出て行く無情な男も父親とのそういう関係が清算しきれなくてのことなんでしょうけど、そういう原因になったようなことを自分でくりかえしてどうすんだよ…とかなんかやりきれない気分のまま帰ろうとしたらなぜかその男を演じた俳優に対するありがとー!みたいな賞賛の書き込みみたいのが掲示されてて、なにいってんのこいつら!!とかむかついたらなんかお亡くなりになったそうで合掌。
そういえば最近ひんぱんに聞かされる夫人のぼやきとして移民がふえるとフランスみたいに街が汚れていく(母国で雇ってもらえない人たちなんだから来たら荒れてあたりまえ)のよ、とかこの映画の弱者同士で喰らい合うところを引き合いに出しながら言ってきたりもします。なんか問題山積みの国にかぎっておもしろい映画がたくさんできてるような気がする…。この自由な世界でとベルサイユの子はシングルマザーの自立という点でおなじ種類の映画なような気も。両方とも「まっとうな人間性にはまずふつうの生活から」がキーワードだし。あとじわじわと貧しさから抜け出せなくなってきた件とかみるたんびにひとむかし前の全員が中流な時代がいちばんよかったのに…とか夫人がたまに言います。生活苦に陥った人に対してもっと努力しろとかいう中年の人たちって、ふつうの生活に這い上がるまでにものすごい努力がいる現状を把握してないんでは。移民とかはまず自国民に食い扶持が行き渡ってからな話のような気もする。尚、ベルサイユの子で子供を男にあずけて仕事さがしにいってしまう母親は、介護の現場での労働が許可されてだんだんと自信を取り戻していきます。この人もなんかさんざんゴミ呼ばわりされて自信喪失してたみたいで、森にいる男と同じく受けるべき時期に愛情を得られなかった人なのかもしれない。
そういえば先週TBSかなんかで浜田ブリトニーのことやってたんですけど、飲食店とか人前で脇毛とかの処理ふつうにしますよーとか何の恥ずかしげもなくにこやかにしゃべってましたけど、イコールそういうことに恥とかが抱けなくなるほど長い間こういう生活環境でいたということで、この人はベルサイユの子で出てってしまう男とおなじように実家との受け入れがたい確執がいまだにあるんじゃないんすかね。ベルサイユの子をみててつくづく思ったんですけど、「洋服を着る」とか「お箸で残さずご飯を食べる」とか、一般的にはごくあたりまえにみえることでもそれは周囲の環境に長く影響されてのことであって、獣同然の環境で育てば人は容易にそうなってしまいますよ。なんか…あたりまえにみえる生活のしぐさは親のいろんな労力の積み重ねで身につけさせてもらったものであって、ものすごくありがたいことなんだなとしみじみ思いました。いつでもそばにいるという愛情と、人間らしい生活環境とがそろってはじめてヒトは自立していけるんだなーと思った。

ミーシャはナチの時代にベルギーにいたあるユダヤ人家族の娘が主人公で、父母がユダヤ人狩りにあって連行されてしまい、学校いってた娘だけが生き残って遠くの親戚かなんかの家に身分偽って住むことになるんですけど、そこの女主人が冷淡だったりして泣きわめいたりもするものの、離れたとこに住んでるおじさんたちが優しいのでなんとかやってけそうに思ってた矢先、そこにもナチがきておじさんたちが連行されていくのをみたミーシャが、次は自分だ…!とか思い込んで、父さん母さんが連行されていったという「東」を目指して徒歩で旅していく話。なんか実話なのかなこれ。徒歩なんで足は痛んでくるし食料もろくにないんでミミズ食ってみたりもするもののどうしても食べれないんで、ディファイアンス同様に道中出くわした人んちから盗んだりしてしのぐ。途中でやさしい狼一家だのロシア軍兵士に助けてもらったりだの出会いと別れをくりかえしながら終戦まで(2年間!)ヨレヨレになるまで自力でもとに住んでたところまで徒歩で行き着く話。最後にこの子は親が死んだということを結局受け入れられなかったという旨の説明が出るんですけど、子供にとっての暖かな愛情の記憶というのは自分の存在と同じもので、普段意識してるよりもずっと重いものなんだなーと思った。

デュプリシティはある出来事までくると前段階の仕込みシーンを差し挟むくりかえしのバンテージポイントもどきな映像構成でだましだまされな企業スパイのサスペンスコメディみたいなアレで、長寿企業が新参者をそうかんたんに信じるわけねーよというオチです。しかしああまでしてオーウェンたちをいぶりだす必要があんのかねえ。一見してすんげえ金かかってるし。あとCIAやMI6にいた人が化学式を確かめないというのもなんかなあ。とりあえずメンツからしてジアマッティはワリをくう役回りなんだろーなーと思ってたらやっぱそうだった。ジュリアロバーツはうまいこと年くった役獲得してて生き残るのうまいんだなあ。

ところでスカラ座の並びのとこで龍太郎の(←後半参照)もってる草間彌生作品が展示されてた。あすこって基本ナディッフさんのもってる物件なの?一時的に借りてるだけ?