鯨は耳垢から年齢がわかるんですって

1982年12月29日
 キャッチャーボートに移って、本格的に撮影をはじめて4日がたった。キャッチャーボートの砲台は船首にあり、風も波もまともにかぶる。防寒対策がいちばんの課題だ。スキー帽の上から、ほおかむりのように毛糸の腹巻をつけ、羽毛の下着上下とセーター2枚、その上からさらに、防寒服の上下を着て、そのフードをすっぽりかぶる。手には登山用の手袋をはめ、寒風で凍傷にならないように、顔には軟膏、唇にはリップクリームをがっちりぬる。そして、大砲の爆音に備えて耳栓。ポケットはフィルムや、のどを守るためのあめ玉でパンパンにふくらんでいる。カメラは両脇に2台、手に1台と、ものものしいいでたちだ。
 
 1983年1月1日
 キャッチャーボート第一京丸の新年はあわただしく始まった。乗組員20人が食堂に集まり、正月のあいさつと共におせち料理をかき込む。いつもの朝5時を2時間遅らせただけで7時には早くも操業スタート。正月の食事中だというのに、「鯨、発見!」の声に、ボウスンとてっぽうさんは「鯨は逃げるが飯は逃げん!」と声をそろえて外へとび出した。
 
 1983年1月8日
 今日は猛吹雪で大しけ。ひどい揺れだ。こんな日は20メートルの第一京丸のマストが、もっと高く思えて怖い。上る途中で下を見たら、そこは荒れる海、思わず足がすくんだ。
 砲台ではジェットコースターに乗っているような揺れを体験。私も砲手と同じように、大砲のような望遠レンズを右に左に振って、鯨を追う。
 夜には風呂で大騒動。大波でこぼれ、お湯は半分ほど。入ろうとするといきなりの揺れで頭からドボン。気を取り直して顔を洗おうとすると、洗面器がスーッと逃げる。石けんもシャンプーも宙をとぶ。体をあちこちにぶつけ、大変な入浴だった。

(中略)

 1983年1月21日
 キャッチャーボートの撮影はいったん終了。母船にもどる。母船に移ろうとしたとき、山国育ちのてっぽうさんが「ありのままを撮り、現場を見たんだから、そのままを書いてください。隠すことは何もないんだから、これがワシらの仕事なんだヨ」と胸を張った。激しい反捕鯨運動が展開されているなかでのこの言葉に、筋金入りの鯨捕りのプライドをかいま見た気がした。
 
 1983年1月22日
 仲積船が荷物を運んできた。
 乗組員たちの地元から運ばれてくる家族からの手紙や、ふるさとの食べものは、彼らにとって大きな楽しみの一つだ。私も、おすそ分けしてもらい、日本でも食べたことのなかったハチの子やイナゴの佃煮、ホヤ貝などの珍味を南氷洋ではじめて食べることができた。
 しかし、手紙が届くと、どの船も風邪がはやる。年末に日本の家族が書いた手紙には、風邪のウィルスも同封されているのだ。無菌状態の南氷洋で過ごす乗組員は抵抗力が落ちているので、ドクターや船長まで次々とうつっていく。
 
 1983年2月10日
 母船にて、肉工場の取材。
 鯨の肉は徹底的に利用し、一片たりともむだにしない。1日の冷凍能力が200トン。ミンククジラ1頭が平均8トンで、そこから肉などの製品が約5トンとれる。捕りためて肉をだめにすることがないよう、1日40頭を捕るとピタリと捕鯨をやめる。
 機械は古いが、システム化された流れ作業は淡々と続けられる。なかでも圧巻なのは、肉の箱詰め作業。無造作に切り分け、金属の箱に入れるのだが、これがいつも15キロジャスト。神業だ。』

上記『』内はこの本のp.60-61からの抜粋です。ちょっとしらべものしに図書館いったらみつけたんですが、市原さん本と共にこれとかもあって子供向けのくじらの本てけっこうでてるんすね。くじら関連についてはのちほどカキますが、ところでエチオピアの土人さんの凄まじい美的センス(ここ経由)を鑑賞しててつくづく思ったんですけど、先進国(おもに欧米)の衣食住に於ける道徳観というのは「自分がいかに正常であるかを他者にアピールするため」を基本にしてあるんですね。それって今はあたりまえのことですけど、でもユー粒の土人さんたちの装飾観にはすくなくとも欧米があたりまえと思ってる「普通」さはどこにもないことはおろか、まったくちがう道徳観のもとに構築されているからよけいに「欧米の価値観」のつまらなさや窮屈さがあぶりでてくるんですもん。とりあえず欧米的な衣服ルールの大前提である「局部を隠す」がない(気候的な理由からも機能としても不要なので、ほかに乳首や股間を覆い隠す理由もないせいか兎に角まるだし)ことと、あと欧米的な価値観の「普通」という概念がまったくないため(ふつうにみせる必要もない・防着も必要ない)、「服」がどうこうというよりもっぱら「肉体を彩る」ことに特化されていて、こまかいことはよくわからないですけど画像をみたかぎりでは特定の季節や地上の実りといった、大地や自然のありさまを体を彩る際にそのままあらわしているふうにみえる。自然のありさまを体現することでそのパワーを授かろうとしているのかとか、あの装飾がたまのお祭りみたいなときだけやってるのかとかはぜんぜんしりませんけど、どの人も我こそはとそれぞれが固有の奇抜さを全面に押し出していて、先進国ではあたりまえのだれかと似通ったあたりさわりのないかっこうにしようとなんかぜんぜんしていない。これが彼らにとっての常識で普通さではあるんで何の抵抗もなく競うように奇抜なことをやってのけてるんでしょうけど、「(肉体装飾での)逸脱を歓迎する」という点ではすくなくとも西欧式の「普通さ」を装う圧力を暗黙のうちにかけられる社会よりは精神的には健康なような気はした。人間なんて正常な奴なんかほんとはいないのにさ。個性ってほかとちがってるってことで異常という意味なのに、その逸脱がちょっとでも過ぎると猛烈に「普通」にしようとするじゃん。西欧的な道徳観を基礎とした「先進国」ではよく個性をだせとかいわれるけど、それはあくまで「普通」の割合を超えない程度の(一般的に理解できる範囲の)ものだという意味が根底にガッチリくっついてるもので、そういう社会のなかではエチオピア土人さんの肉体装飾のような逸脱しすぎな個性は理解されない=西欧的社会のいう程度の「個性」というのは実際には馴らされきってることに気づきもしない鼻くそ程度にすぎないものなのかもしれない。
それはそうと昨日の町山さん番組でアーミッシュか俗世か選ばせる儀式流れてて、アーミッシュの人は清貧を守ることで俺たちゃ天国にいけるんだそれ以外のバカどもは全員地獄に落ちろゲヘヘーて思ってるんですよーって町山さんが解説してましたけど、天国行きが確実と思われる「私財や人生をなげうって困ってる人を助けてるマザーテレサみたいな真の偉人」にくらべると「文明生活に背をむけた上世の中の出来事すべてから目を背けて勉強いっさいしない人」はなんとなくあの世でマザーテレサと同じ場所にいけるとは思えないですけどね。そもそも何をもって天国とするかしらないですけど、霊の人によるとあの世は階層になってて似たような意識をもってる人は同じ階層にとどまるんだとかなんとか。アーミッシュの人は「世の中でなにがおころうとしらんぷりな上、まったく知ろうとすらしない」という階層に死ぬたんびに全員がいくんでしょうからいくら生まれ変わっても永遠にそこから抜け出せないことになりますな。アーミッシュの人には霊感強い人とかはいないんでしょうかね。そういえばアーミッシュだの福音派だのアメリカの強烈なキリスト教系信者の人って霊の世界的には最高の善行とされる「私財や人生をなげうっての人助け」(=自己犠牲)はぜんぜんしてなくて、自分らの考えを他人に押し付けることばっかりやってますね。福音派アーミッシュの人は地獄には落ちないだろうけど、マザーテレサのいるほうの天国にはそのままだとぜんぜん行けないのでは。アーミッシュの人が天国に入るために実践してる「世界から目を背ける」って、欲望や怒りをもたないためっていうのが一応の方便なんでしょうけど、それって創作物の残酷表現やエロ表現から目を背けろと規制したり、生き物を殺して食べることをやたらに避けて葉っぱばかりたべることとものすごく似てますね。人間の生死(エロ&残酷)という真実であって現実から目を背けろと命令して、それ以外の考え(他者)はまったく受け付けないみたいなところが。じゃあエロや残酷さをありのまま表現して日常的にむきだしにしてる土人さんや土人さん社会は精神的に不健康なんですかね。それをいうなら交尾をそこらでして食うために引き裂いてまわってる動物は不道徳なのか。そもそも生きる上ではあたりまえの食べたり殺すことを特定の宗教思想がかった「道徳」に照らし合わせたりするから話がややこしくなるのであって、本来は恥じる必要なんかぜんぜんない。なのに殺して食べることが「汚いこと」「恥ずべきこと」などという欧米の道徳観が根付いてしまったゆえに、生きることそのもの、あたりまえにもっている欲望や生理現象すべてがあってはならないものとされてしまいかかってる。ありのままを認めることができない、表現することができない、みることができない、こんな精神的に不健康な状態があるだろうか。まっすぐ物事をみすえることができて、はじめて正すべきところやいいところを認識できるというのに、みすえることはおろか、生きる上であたりまえにあるものをこの世から消そうとするなんて人間を消そうとすることと同じであって、どの国でも起きた大量虐殺を命じた者と同じ姿勢でもある。直接手を下さないあたりが真逆にみえてしまうところがやっかいなのだけれど。残酷を残酷と呼べず描くことも見ることもできない、そんな存在否定が道徳とされるような病んだ世界にしてはいけないと思う。信頼すべきはいかなるものが相手でも歩み寄り対話をしようと試みる人であって、自分にとって都合の悪いものから目をそらしたり無くそうとする人はどんなにきれいごとを並べていようと社会や人にとって害をなす存在です。そういう人でも対話をして歩み寄るべきだとは思うんですけど、こちらが歩み寄ろうとしても拒否するばかりで対話にならないことが多いんですよね。たぶん異常なほどこわがりなだけなんだとは思うんですけど。
数守って捕ってるクジラ漁を異常なほどやめさせようとする人じゃないですけど、野菜だけたべているから自分は悪くないと言いたげな菜食主義者は、以上のことからすると天国にいきたいがゆえに文明や情報を遮断して清貧生活をおくるアーミッシュととても似ている。世界中であらゆる出来事がおきているというのに、そのすべてから耳目をとざしてなにも問題はないとうそぶいて暮らしている。自分に火の粉がふりかかるわけがないと思い込むことで自分が「正しい側」にいる存在なのだと信じ込もうとするあまりに、人間ならだれしもが持つひとつの側面をひたすら否定する生き方をした挙げ句思考停止する。ありのままを認めることができない考え方はとてもつらいだろう。生きること自体がだれにとっても残酷でありやさしくもあり、エロくもあり道徳でもあり、すべての要素から切り離すことができない。人間が生きる上で発生する要素のうち、どれかひとつを否定することなどほんとうはできないし、してはいけないと思う。どの要素もまちがいなく人間そのものだと思う。どんなにひどいことでも人間が行うことはすべて人間のものです。へんな性癖をもつ人だろうと殺人を犯した人であろうとすべて同じ自分と同じ人間です。気持ち悪いからって他人事で片付けて耳目ふさぐばっかりじゃ世の中が良くなりようもない。自分とあいつはぜんぜんちがうと切り捨てて済まそうとするから殺伐としがちなんじゃないんですかね。マジで切り捨てない人はそういう残酷描写やエロ描写を描いた創作物をみれなくしようとしたりなどせず、ちゃんと向き合うことができる。なくすなどという乱暴はやめてください。どんなに否定しようと人間は残酷でありエロであり愛です。いやなところだけ否定して身ギレイになった気にするような幼稚な生きかたを押し付けたりすんな。