のりピーも表層とりつくろいに命かけちゃった人だったのかなー

『一九八八年七月八日、中学二年生で十四歳の男子生徒が東京都目黒区の自宅で会社役員の父親、母親、そして祖母を殺害したのです。
 少年はサッカー部に所属し、礼儀正しく明るい性格で人気者だったので周囲は皆驚きます。大きな見出しで「あの『いい子』がなぜ」(一九八八年七月九日、朝日新聞朝刊)。同級生の父母は「道で会っても『おはようございます』ときちんとあいさつをできる、今どき珍しい子」といい、また別の同級生の母親は「『うちの子は反抗期があまりない』といったので、うらやましいと思ったことがあった」といいます。少年の同級生も、信じられぬという。中学一年生のときに同じクラスだった子の言葉は「暴力を振るうなんて考えられない」。
 ここでも人々は行動だけを見て評価し、心を見ていません。
 だいたい、「うちの子は反抗期があまりない」と自慢すること自体がおかしい。反抗期は子どもの精神的成長に絶対に必要な過程です。反抗期がないということは、親子の間に信頼関係がないということにほかなりません。子どもは、本当に親に見捨てられる、嫌われると思ったら、反抗はできません。愛されている、認められているという自信と相手に対する信頼感があるからこそ安心して反抗できるのです。
(中略)
 毎日新聞は大見出しで「『なぜ』深まる疑問」「家族惨殺」と出す。記事の書き出しは、「いったい、なぜ―。重苦しい疑問が一夜明けても深まるばかり」。
 同年七月九日の毎日新聞は、次のような祖父の言葉を載せています。「うちはそんなことが起きる家庭ではないはずなのに」。
 現実に事件が起きているのに、誰も「どこがいけなかったのか」と反省していません。』(p.75-77)

『新聞はよく「素直なよい子」と書きますが、素直な子はこのような事件を起こしません。事件を起こすのは「従順な子」―もっといえば、「服従する子」です。「素直な子」には意志があるが、「従順な子」には意志がありません。心に隠された憎しみの感情しかありません。日本文化は、献身や自己犠牲という価値をほかの諸価値に対して高く評価します。従って、「親の手伝いをする子」というのは周囲から大変に評価されるのです。』(p.20-22)

『自分はネコなのに、親からトラが立派だといわれた。そこでトラのぬいぐるみを着てトラのように歩く。「苦しい!」と思うのは当たり前です。親の価値観を生きているので、自分の意志でいるのではないのです。
 従って、状況に対応する知恵がありません。そのうちに意志そのものがなくなってしまいます。これは自分が自分を拒否してしまった状態です。
また、真面目さだけでは状況の変化についていけなくなります。そのときにテレンバッハのいう「防衛の瓦解」(H・テレンバッハ「メランコリー」木村敏訳、みすず書房、一九七八年、二九四頁)が起きるのです。
 そしてそのときが、社会的事件の起きるときです。
 「疑似自己」で生きている彼らは、心の葛藤を真面目ということで抑えてきています。先に述べたように、真面目さで現実を乗り切ろうとしています。彼らは真面目さによって周囲から保護されようとしているのです。真面目であれば自分を評価してくれる。真面目であれば間違いはないと思っている。だからこそ、真面目さという防衛が瓦解するまで、その生き方を離れることはできないのです。』(p.53)

『彼は「勤務態度が真面目」でした。人が嫌がる仕事を嫌な顔をしないで代わってあげる。上司からも部下からも信頼は厚い。まさに働き盛り、分別盛りの人です。地域の人に対するあいさつもマナーもよく、職場の外での評判もいい。しかしかれの仕事熱心さと真面目さは、おそらく「防衛的性格」としてのものであったのでしょう。批判されまいとしての仕事熱心、他人に自分をよく印象づけようとする真面目さ、マナーのよさです。
 愛想のよい性格も、不安から自分を守るための防衛的性格であったのでしょう。きっとそれは、彼の本来の性格ではありませんでした。他人からの愛情を求め、認められるために愛想をよくしていたのでしょう。この振る舞いを守っている限り他人の好意をあてにできる、そういう愛想のよさです。
(中略)
 不安な彼にとって、自分のために生きることは大変なことです。
 人間関係で砂糖はまかないことが大切なのに、いつも砂糖をまいていた。そのたびに不愉快であったでしょう。しかし周囲の人に受け入れられなくなるのが怖いから、不愉快な感情を押し殺します。
 彼は周囲の人の好意を得ることで自分を守ろうとしました。人に守ってもらおうとしました。
 小さい頃は人から守ってもらう。大人になったら、自分で自分を守る。しかし、彼は大人になってもこのような人格の再構成ができていなかったのでしょう。』(p.142-143、147)

『心の奥底で憎しみにとらわれていた彼は、真面目以外にどう生きてよいかわからなかったのでしょう。表面の行動と隠された真の動機―それを見抜くことが、ことの本質を理解する方法なのです。』(p.58)

『「たったこれだけのことで、何ですぐに機嫌を損ねてしまうのだ?」と人々は思うのですが、しかし機嫌を損ねる前は、たとえ怒っていなくても、すでにつらくて心が悲鳴をあげています。
 「これ以上はもう無理だ」と心の中で叫んでいる。そこに畳みかけるように、周囲からの要求が出る。そこて途端に不機嫌になったり、キレて暴力的になったりします。不機嫌は攻撃の感情が内側に出たものであり、暴力は攻撃の感情が外に出たものです。
(中略)
 日々生きることだけで内面はパニックになっている。だからすぐに「キレる」。』(p.70-71)

『二〇〇三年七月九日、長崎県で、中学一年生十二歳の少年が四歳の幼稚園児を裸にして立体駐車場のビルから落として殺した事件がありました。
(中略)
 長崎のこの事件もまた例によって、「ちゃんとあいさつのできる子」とか「おとなしい感じ」とか「成績優秀な子」とかいわれています。
(中略)
 また、この種の事件が起きたときに、いつもニコニコしていたのにと新聞に出ます。しかし何をしゃべっていいかわからないからニコニコ笑うことがあります。ニコニコ笑って別のことを考えています。ニコニコ笑う子が殺人事件を起こすことは不思議ではないのです。
 私がもう一つ問題だと感じるのは、こういう事件が起きるとよく出るのが「誰でもこうしたことをする可能性がある」という識者の見解です。
 この事件についても、ある精神科医が「幼少期の特異な体験に起因するのかもしれないが、人間関係を築けない子どもが増えている今、誰もがそういった行動に走る危険性はある」と述べています(同年七月十四日、西日本新聞朝刊)。
 「誰もが」といいますが、母なるものを持った母親に育てられた子が、このような事件を起こすことはありえません。この医師がいうような「誰もがそういった行動に走る危険性はある」という見解は、子育てにおいて親の重要性を無視する危険な考え方につながります。「誰もが」ということによって、子どもに対する親の関心の重要性が見落とされてしまいます。
 子どもに影響を与えるのは、親の行動ではなく、親の無意識です。
 長崎の事件の犯人の十二歳の少年は、「お母さん大好き」といっているといいます。お母さんを大好きな子が、このような事件を起こすはずがありません。ではなぜ彼は「お母さん大好き」といったのか?
 長崎家裁は審判にあたり、この少年に対し、専門家チームによる二ヶ月の精神鑑定を実施しています。その結果、少年の特質として「母親を異常に恐れている」という。子どもが長いことストレスにさらされて生きるということは、恐ろしい結果をもたらします。少年は、母親への恐怖の反動形成として「お母さん大好き」といったのでしょう。
 少年のこの発言については私がテレビ報道を見ていたときの記憶によるものです。私の解釈では、この事件を起こす前は彼は母親が嫌いで、母親を憎んでいた。しかしこの事件で憎しみが発散されて、本来の母親を求める気持ちが少年の心の中に表面化してきた。その結果、「お母さん大好き」といったのではないかと私は考えています。』(p.86-88)

『人は親から十分に関心を持たれて、はじめて他人にも関心を持つようになれます。小さい頃から親をはじめ周囲の人から関心を持たれなかった人は、なかなか周囲へ関心を持つようにはなりません。
 人は誰でも「自分、自分」で生まれてきます。最初は「自分」以外にありません。しかし親から関心を持たれて、その欲求が満足されてはじめて、自然と周囲への関心が生まれます。』(p.162)

『愛着人物とは、親しい人。つまり、「あの人は自分が困ったときにはいつでも助けてくれる」と思っていることです。この信頼感があれば、子どもは厳しく叱られても親を恨んだりしません。冷たい好意の後ろに何かあると思う。
 (中略)この、周囲の人への信頼感こそいわゆる「心」です。これは感情とは違います。
 心理的に成長できる人は、マイナスの感情を出しても自分は見捨てられないという安心感があります。その安心感のもとでこそ、人は心理的に成長することができます。こうした安心感とか信頼感というものが心を育てます。ここでいう「心」は、そのときどきの感情とは違います。
そのときどきの感情は、プラスの感情もあればマイナスの感情もあります。身近な人と喧嘩をしてその人を憎むときもあるし、悪口雑言を吐くときもある。好きな人に敵意を抱くこともある。
 しかし、その相手を面罵しているときでさえ、相手との関係がこれで終わりとは思っていません。そしてその結果を通して、結局はお互いの関係と理解が深まります。マイナスの感情は、表現されたことで消えていきます。時が経てば、そこに残るのは「心」です。マイナスの感情がお互いの関係を終了させることはないのです。
 しかし、喧嘩が別れの場合もあります。喧嘩することで関係が終わる場合もあります。そして人との喧嘩がすべて関係の終わりを意味しているときには、人はいつもマイナスの感情を表現することを我慢してます。だからいつも不満で緊張しています。そういう人にはいわゆる「心」がない。あるのは感情だけなのです。
 「お互いに感情をぶつけ合う」という表現を使いますが、一般的にこれはお互いにマイナスの感情をぶつけ合うことです。「心」があれば、それでお互いにすっきりして、関係は終わりません。つまり、感情だけで人とつながっている関係は脆い。お互いに「好き」という感情だけでつながっているときには、対立し、喧嘩し、憎んだらそれで関係はおしまいです。
 対立を恐れるのは、その人が嫌いだからです。その人が好きなら対立を恐れません。その人が怖いというときには心のどこかでその人が嫌いなのです。好きな場合には恐れではなく、尊敬になります。
 自分が相手を嫌いだから、相手と関係が切れる気がする。親に見捨てられる不安を持っている子どもは、親が嫌いなのです。親も子どももお互いにあまり好きではない。』(p.132-134)

アメリカで集団自殺をしたヘブンズ・ゲイトというカルト集団にしろ、こういう人たち[*集団焼身自殺をした「真理の友教会」]にしろ、皆が「天国に行く」という。しかしそんなものは、この世の中で生きられなくなったことの口実です。行き詰まった自分の人生を合理化しているだけです。
 自殺していった人は、周囲の人を皆嫌いなのだと私は思っています。嫌いなら「お前は嫌いだ」といえばいいのですが、でも好かれたい、相手には嫌われたくない。立派な人と思われたい。だから「お前は嫌いだ」といえない。そこで、「人民のため、真理のため、神のため」といいます。
 この集団自殺した女性たちは、明らかに人格の再構成ができていません。』(p.152-153)

『どうして周囲の世界に敵意を感じてしまうのか?それは小さい頃、自分を扶養してくれる人の心が憎しみに満ちていたからでしょう。たとえば親の無意識に敵意や憎しみがあったとします。子どもは当然、親の無意識に敏感に反応します。それが神経的不安です。
 そうした子どもは、敵に囲まれて成長してきたようなものです。大人になって頭でどう考えるかは別にして、感じ方としては「周囲の世界は敵意に満ちている」と感じて不思議ではないでしょう。ことが順調に進んでいれば、その感覚は心の底に眠っています。しかし、その子が生きることに躓いたとき、火花が散って点火します。
 私は、対人恐怖症というのはPTSDの一種だと思っています。小さい頃、親に怒られて怖かったのです。その恐怖感から逃れられない心理的後遺症です。対人恐怖症まではいかなくても、小さい頃の恐怖の体験の後遺症に苦しむことは人間として不思議なことではありません。』(p.184-185)

『うまくいかない家族のケースは母親が子どもとの心のふれあいがないことが多いようです。「子どものためにこれだけのことをした」という親のいうことは、聞いてみるとすべて「行動」です。
(中略)
 子どものことで悩んで相談に来る親は皆、「こんなことをしてあげた、あんなことをしてあげた」ということを延々と口にします。高い授業料を払って塾に行かせてあげた。いい運動靴を買ってあげた。欲しがるおもちゃは全部買ってあげた。こんな高級なレストランに連れていってあげた。
 そのときに子どもが「こんな表情でこんなことをいった、こんな笑顔をした、こんな顔をして嬉しがった、こんな格好をして走っていた」などという行動に対する心の説明はないのです。いうことはすべて、こんなに働いてこんなにいい学校に行かせてあげたという、「自分がやってあげたこと」です。しかし、子どもがどんなときに寂しがっていたかということには関心を向けなかったので、わからない。
 子どものために人生を捧げながらも子どものことで悩んでいる親は、子どもが寂しいときにその子どもの話を黙ってうなずいて聞いてあげていないのです。
(中略)
 子どものことで悩んで相談する親がいう「あの子は元気でした」という説明も同じです。心を理解しない親は、子どもの表の華やかさだけを見ています。表の華やかさを対称的な子どもの背中の寂しさに気づいていません。
(中略)
 感じたことをそのまま表現できない、自分を出せない、イヤだけど、イヤといえない。それは喧嘩をしなくても親しい関係ではありません。嫌いといっても捨てられない。イヤなことをイヤといっても関係が切れないし、その不安がない。そんな心理的な関係を「親しさ」といいます。
 「健ちゃんのお母さんはお料理が上手。隣のおばちゃんのほうが好き」。これは母親にとっては頭に来る言葉です。でも、これがいえるとき親子関係はうまくいっています。
 また、ある仲のよい家族の、孫とおじいちゃんの会話。孫が「おじいちゃんとテニスするの、もうイヤだ」といい、おじいちゃんが孫に「文句いってないで早くやらんかい」といって笑います。本心をいってもお互いに傷つきません、それは相手が自分を貶しても自分を好きだと知っているからです。何も気にしないで自由にいい合うことができているときには、お互いに心がふれあっています。』(p.124-126、128-129)

『「この家族は喧嘩がない」といいますが、事件の状況を考えれば、「仲のよい家族」ではありません。お互いに怒りや不愉快などの自分のマイナスの感情に蓋をして、喧嘩を、つまり深いコミュニケーションをしないでいるだけなのではないか。それでなければ、この事件が起きたことの説明はつきません。
 怒りの感情に蓋をして喧嘩をしていない。しかし、お互いに相手を信用していない。お互いに都合の悪いことは知らないふりをしています。お互いに重荷になることは話さない。歳を取り、別々に生活をはじめれば、無理をしてまでは会わないような家族関係です。喧嘩をしないけれども、信頼関係が欠如しています。心の底の怒りを抑えていれば、元気を失い、ストレスに苦しみ、憂うつになります。
(中略)
 こういう関係では、喧嘩はしないけれども、お互いの間にあるさまざまな問題は解決していません。その解決していない問題が、ときにものすごい形で噴火してくるのです。
(中略)
 口をきかないけれど喧嘩をしていない家族、それは外から見れば仲よく見えるかもしれません。しかし、それは心理的に病んだ家族である場合が多いのです。喧嘩をすると土砂崩れが起きるから、喧嘩ができない。そうした愛のない家族であることもあります。
(中略)ある喧嘩をしない家族の話です。その家はお金持ちで、お手伝いさんがいます。子どもが文句をいうのは、いつもお手伝いさん。母親には文句をいいませんでした。母親は「子どもと仲がよい」と得意です。しかし、子どもはお手伝いさんが辞めるときには泣いたのです。
 文句をいわないのは母親が「他人」だからです。私たちは親しくない他人とは喧嘩をしません。こういう家族は、喧嘩をしないけれど、見えない心の壁があります。家の中に見えない対立があります。どこかでお互いに気を使っています。お互いに我慢しています。
 この家族の人間関係は、泣きたいときに泣けない関係です。子どもが成長して家族がバラバラに住むようになっても、お互いに懐かしくはなく、連絡を取り合うこともあまりないのです。』(p.118-122)

『子煩悩に見える親の中にも、本当に子どもがかわいいという親と、自分の愛情飢餓感を満たすために子どもに関わる親とがいます。子煩悩というときに、それがその親の成長動機によるものなのか、欠乏動機によるものなのかは目に見えません。表面上は同じような「子煩悩さ」であっても、子どもにとっては天国と地獄ほどの違いがあります。周囲の人はときに、地獄にいる子どもを見て天国にいると思っています。
 マズローのこの「成長動機」と「欠乏動機」という言葉を使えば、成長動機から人を喜ばせようとすることは望ましいといえますが、欠乏動機から人を喜ばせようとすることは心理的には好ましくありません。
 欠乏動機で行動したときには、あとで感謝されないと面白くありません。欠乏動機とは、安全、所属、親密な愛情関係などの基本的欲求が欠乏しているときに、それを満たそうとする行動をおこす動機ですから、自分が期待するものが返ってこないと面白くありません。人の心を失うことを恐れて自分の本性を裏切るなどの行動も欠乏動機からの行動です。
(中略)
 欠乏動機で動いている人は、生活全体が落ち着いていません。身につけるものや家具などの調和もなく、課長がベンツに乗っているようなものです。豪華な食器に学食のカレーライスが出てくるようなものです。(中略)つまり、欠乏動機の努力は、どこかずれています。
(中略)
 「女性にもてる」ことを自慢している男も、欠乏動機で動いている男。これも他人に認められたいからです。成長動機で動いている人にとっては、「もてる」ということよりも、「私はあの人が好きだ」ということが大切なことになります。だから「女性にもてる」というような自慢の仕方はしません。
 欠乏動機だけで動く人は、相手にとって必要な人になろうとしているのに、結果として必要な人とはなれないのです。「テーブルをちょっと拭いておいて」といわれても、ほめられようとするから三○分も掃除をします。そしてほめられようと密かに期待する。その結果、相手に気に入られないことがあります。欠乏動機だけの人は、どうしても相手の要求とずれてしまいます。』(p.170-171、174-175)

『大人への成熟を拒否し、いつまでも子どものようにいたいと願う「ピーターパン症候群」の若者は、新しい友人を大切にします。女たらしのドンファンは次々に新しい恋人を追い求めます。やがて、その友人や恋人が自分に近くなり、自分にとって必要な人間になり、同時に、自分にとって自由な世界を妨害する人間になります。しかし相手は自分の甘えた期待通りには動きません。その結果、相手に敵意を持ち、それを意識できず無意識へと追いやります。つまり抑圧が起きてくるのです。
 ピーターパン症候群の若者も、ドンファンも、その抑圧の結果、その人といると気持ちが重苦しくなります。そして、自分のわがままな世界を妨害しない次の新しい恋人や友人のもとへと逃げていく。これを繰り返すのです。要するに、彼らは一人では生きられないくせに、他人が自分に深く関わることを嫌う。他人が自分に近くなり親しくなると同時に嫌いにもなるから、いつまでも本当の親友や恋人が持てません。
 人は、生きるのが苦痛になると現実から逃げたくなります。心理的に弱ければ弱いほど、現実から目を背けて生きるようになります。そして自分の心にどんどん負い目を作っていく。負い目は自信をもぎ取り、無気力につながっていく。そして人の批判が怖くなります。
 人は、誰も逃げたくて逃げているのではありません。そのときが耐えられなくなって逃げてしまう。そして一度逃げることを覚えると、簡単にその手段を使うようになってしまいます。やがて気がついたときは、大きな「つけ」に膨れ上がっています。そしてさらに、その大きなつけで苦しみます。』(p.92-93)

『これらの事件を起こした少年たちのまわりには、本当に彼らに関心を持っている人たちがいなかったに違いないと思います。だから誰も、彼らの心の底にある「破壊的な衝動」に気がつかなかった。事件が起きたあとに聞かれる「信じられない」という台詞は、つまり「私はあの人に関心がなかった」ということです。彼らにはおそらく本当に親しい人がいなかったのです。
(中略)
 前章で取り上げた「世の中にいないくらい真面目な」少年たちも、その真面目さは彼らにとって、「弱体の自我が葛藤に真正面からしりごみしないで立ち向かえないのを、何とか支えようとするしくみ」だったということです。
 「世の中にいないくらいに真面目な行動」が、弱い彼らの心の杖だったのです。』(p.112-113)

『「こんなことをする人」は不良少年か病気の子であるという考え方は、不良少年をも間違って解釈する危険があります。不良少年といわれる子どもを誤解しやすい。不良少年、わがままな子、悪い子、乱暴な子、さらには犯罪をする者というようにとらえていきます。この場合にも、不良少年の心を見ていません。
(中略)
 その医学的見地からの病名を聞いて私たちは、「ああ、そういう病気の子だったのか」と何となく納得してしまう。その病名が、この事件への何の説明にもなっていないのにもかかわらずです。
(中略)アスペルガー症候群というような名前をつけると、何となく事件を起こした少年の行動を納得してしまう。答えが出たような気分になります。
 一方、この種の事件が起きると、自分の子どものことを心配した親たちから、私は相談を受けます。私が「何も心配することはないのではないですか?」というと、「でも先生、『正常な子』と新聞に書いてありますよ」、あるいは「でも、『普通の家庭の子』と書いてありますよ」といいます。私は、新聞記事が全国の「普通の家庭の普通の親」を不安に陥れていることには大いに問題があると思っています。』(p.109-111)

『新聞記者はだいたい本書で取り上げた社会的事件を起こすような「おとなしい人」でないことが多いし、「真面目な人」でないことが多いし、「立派な人」でないことが多いのです。従って、この種の事件の記事や解説がおかしくなることが多いのです。
 自分と違ったタイプの人なので理解しにくいのでしょう。マスメディアの人間はどちらかというと非抑制型の人、事件を起こした真面目な彼らは抑制型の人であると思います。
 また、「真面目な人は犯罪を起こさない」とか「おとなしい人は暴力をふるわない」とか「喧嘩をしない家族は仲がよい」とか、私たちは物事を既成のカテゴリーにあてはめて考えようとします。そして、事態をよく理解する前に、この既成のカテゴリーに「とらわれる」のです。
 真面目な人、おとなしい人、明るい人、それらの人たちは「こういう人」という、既成のカテゴリーにしがみついて物事を解釈していこうとします。それに合わないと「なぜだ?」とはじまる。』(p.201-202)

『これらの人を「よい人」というからおかしくなります。事態を理解することができなくなります。この種の事件が起きると「どうして、あんなにいい人がこんなことをしたのか?」という疑問になり、新聞は「深まる謎」「いったい、なぜ」という類の見出しをつけ、そのように書くことになります。
 しかし、正確にいうならば、「よい人」ではなく「神経症的傾向の強い人」といわなければなりません。
 「よい人」といわずに「神経症的傾向の強い人」といえば「なぜ?」ではなく「やっぱり」ということになります。行動で見ないで心で見れば、事態を正確に把握できます。』(p.138)

『いずれにしろ、こうした人々が「模範的な生徒」として評価を受けていたということは、私たちが人を評価するときに行動だけを見て、いかに心を見ていないかということを表しているとはいえないでしょうか。
 心を見れば、彼らが不安と恐怖の中に閉じ込められていたことはわかったはずです。彼らはこの不安と恐怖を、真面目さで乗り切ろうとしていました。しかしその乗り越えに失敗してしまいました。そこで、その不安と恐怖を乗り越えるため、真面目の真逆へと振り切れてしまったのでしょう。
 「信じられないくらい真面目な人」であるときも、反対に犯罪に走っているときも、行動は違っても心は同じです。どちらのときも心の中は同じように不安と恐怖でいっぱいです。
 「一変した、一変した」という人たちにとっては、豚小屋からの声も馬小屋からの声も同じということです。馬が「ヒヒヒーン」とないても豚と同じなのです。豚か馬かには関心がない。
(中略)
 そもそも、人を殺した生徒を「模範的な生徒」と学校の責任者がいうこと自体がおかしい。「どこか私たちの見方がおかしかったのでしょうか」というならわかります。しかし、人を殺したあとでもまだ「模範的な生徒」と教育者がいい、それをそのまま新聞記者が書くことが極めておかしい
 本来、記者会見の場で先生が「模範的な生徒」といったときに、「先生、その考え方はどこかおかしいのではないのですか?」といって追求していくのが新聞記者の役目のはずです。これでは、何のための新聞記者かわからない。
 「世の中にいないくらい真面目な人」も「模範的な生徒」も、彼らの「疑似自己」です。
 少なくとも記者会見の場で新聞記者は、「貴校には『模範的な先生』はいないのですか?」くらいの質問をしてもよさそうです。そうすれば、次第にことの本質が見えてきます。
 問題のある「模範的な先生」とは、どういう先生でしょうか?
 それは、本当の自分がないままに生徒指導をしている先生です。
 それは生徒や保護者からよい先生と思われたいから頑張っている先生です。日頃から無理をしている欲求不満から、生徒や保護者が見ていないところでは何をするかわからない。
 「はじめから本当に模範的な生徒」などがいることはありえないように、「はじめから本当に模範的な先生」などもありえません。何らかの失敗や挫折があって、精神的に成長し、そののちに「模範的な生徒」や「模範的な先生」は出てくるのだと思います。』(p.49-51)
 
上記『』内はこの本からの抜粋です。さすがハーバードで研究してただけあってうろこのでるお言葉がたくさん書かれていまして、大筋はうなずくことしきりなんですけど、たまに紋切り型の表現すぎて誤解をまねきかねない箇所がけっこうある(母親から愛されずに育った人はほとんどこうなる、みたいな感じのとことか)のがちょい不安なのと、あともののたとえがなんか…おっさんらしい不器用さがみられてちょっとだけほほえましいです。とりあえずマスコミの犯人像のキャラ落差演出(こんなマジメな子があんな鬼畜をー!的な)煽り手法を教師連中がなんの疑いもなく礼儀作法よろしく公的な場で堂々と使ってる、という意識せずに下劣行為をさんざん行ってきた現実があぶりだされるくだりがとっても爽快でした。

まあ寝ます。