増田和也アナと有吉が組んで毒舌が売りの番組でもつくればいいのに

   
   

おんなが社会で働くと子供が生まれなくなるかもの件をほうぼうでダラ見してて思いましたけど、おんなが社会進出してる国ほど良い国デス!みたいな話って「家事してる人」より「社会に出て働いてる人」のが人としての地位が高いっていう差別的論理を前提としてるんですかね。主婦にしっかり育てられてありがたみが身に染みてる身からするとその考え自体がなんかアホらしいとしか。つーかおんなとしてはやること増える上に個人としての幸せが追求できなくなるんだからふつうに子供うまなくなって当たり前だと思う。あと社会進出イコール進んだ国!おんなは社会進出しなさい!って大きなお世話に思います。自発的にしたくてやることであって外部からギャースカいわれる筋合いはないと思う。人殺しの兵器売っぱらってなりたってるくせして社会進出どーのとか上から目線でよく言えますなぁ。

喫煙者極悪人扱いといい右にならえのズリ下げスタイルといい、巷の風潮の尻馬にのっかってるだけなくせして正義ぶったりワルぶったりする点がバカですね。みんなとおなじことをするのが楽しいだけですって正直に言っちゃえよ。多様性多様性ってクチでは言ってるくせして自分の好みじゃない嗜好品を摂取してる人の弾圧を賛同するたばこスレ書込み者とか刺身食わない地域の禁止賛同とかなんなのかと思う。食べないモノについて「どうでもいい」が本音なのに、大多数側についてたほうがトクだからってかるい気持ちで「強者」側ぶってるだけなんだろ。恥知らずのクソ腰巾着ども。なんか「大多数側につく」って「いじめられるのが嫌だからいじめる側につく」とにたような構図ですねー。そういえばこの作品は現代のいじめられっこがローマ帝国な時代にタイムスリップして残虐な闘士として活躍する話なんですが、この前のシリーズを読んでないのでこまかいことはよくわからんのですけど、SINの主人公はいじめられっこというか継父から苛烈な虐待を受けつつ育ったキャラクターで、そういう出自が原因で強い友人や明るい友人に逐一守られながらやりすごしてきた過去があるようなんですが、闘士として独り立ちできるようになってからというもの、かつて守ってくれた友人たちを「今度はお前らの番だ」と敵視して痛めつけようとする。そもそもこの元いじめられっこ闘士は関節はずしや骨の粉砕といった、致命傷にはならないけれど地獄の苦しみを長く味わうことになる痛めつけ方をする戦闘スタイルで、対戦相手をガラクタをくしゃくしゃにするみたいにグチャグチャに痛めつけるわりになぜかひと思いに殺したりはせず、生殺しのまま戦闘不能にしてしまうわけですが、その拷問的な画ヅラだけみてると百戦錬磨の王者のように一見みえるんですけど、1巻のさいごで実はかれは「殺し」に対する恐怖心がために代替としての拷問戦闘スタイルしかとれないでいるという真実(=弱点)があぶりだされます。この元いじめられっこ闘士は幼い頃、虐待生活による孤独を癒すために隠し飼っていたハムスターを継父から見咎められ、唯一の心のよりどころだったハムスターを自らの手で強制的に殺させられるという経験をしていたりと「殺し」に対する恐怖(殺し=渇望しているもの[愛]をなくす)が植え付けられているというのと、いじめられる側からいじめる側になることで生存本能が一時的に満たされるあたりの精神的作用から「みじめな境遇だったころに弱者扱いした友人をなぶり殺す」ほうになっちゃってるのかなと思った。闘士になってからの「強くなりたい」という願望は「だれかを痛めつける」ベクトルの考えであって、しかも「対戦相手を中途半端に痛めつける戦闘スタイル」は「いじめる側」としての生存的安心感を得るのと同時に「生きのびるために何でもしたかつての自分」を殺せない(=弱者としての呪縛に囚われ続けている)こと等、この人の戦う理由はすべて「自分を守る」ことから根ざしたものばかりなことを生粋の戦士から見抜かれてしまうという。「愛情を得たい」という強烈な欲求と死に対する恐怖にがんじがらめになっていて、それをやりすごすためにいじめっこぶってる「いじめられっこ」。殺し屋1の主人公(実はいじめられっこじゃないですけど)はいじめられることへの強迫的な恐怖心から標的を瞬殺してしまう殺戮マシーンでしたけど、SINの主人公はひた隠してる中身が弱すぎて殺しすらできないあたりなんかリアルです。
ところで上記画像はこれのです。保身のためにでっちあげして悪くもなんともないモノを悪者よばわりする連中って大昔からいたのな。

・昨日キューチャンネルの例の番組聖書のファンタジーをガキに信じこます手助け施設編はアル中で近親相姦オヤジのノアとか再現してあってバカでよかったです。なにしろちびっこのうぜえ質問をかわすだけのためにこうまで大枚はたくとか、やっぱアメリカの深田舎のヒトはてきとうなだけなんだな。施設の存在意義聞かれたそこの施設の館長っぽい人が、神が定めた法がなかったらじゃあ人間はどうしたらいいんですか!て逆ギレぎみに説伏口調で語ってましたけど、「人間は神にすがりつづけていくしかない」という努力放棄な論理前提でなんか怠惰なヒトたちなのだなーとしみじみしました。神がいないと自分で考えることもできないし成長も自立もしません!て甘ったれ宣言してるふうで。「地上はあくまで人間の世界でなければらない」(人外が人間界のことを解決しだしたら人間の生死や努力する意味がなくなって「人外を崇める」だけが正義になってしまう)ことを描いたこの作品は創造説博物館のヒトにはやっぱ受け付けないんだろな。