正義のアドレナリンはどんなにひどい暴力も平気でふるう件

さっきの町山さん番組でやってた、ナチに収容所送りにされたけど恋人への執着を生きる目的に重ねたおかげでなんとか過酷な状況下を生き延びることができたユダヤ人のひとたちのドキュメンタリー中で、当事者の女性が同じく収容されていたユダヤ人たちが山のように死体になっていく光景を思い出しながら「どうしてあんなひどい仕打ちができるのでしょうか」みたいに言ってましたけど、それはナチの人が自分らは完全な正義だと信じてたからでしょうな。この前ケッチャム映画の件でも書いたけど、他人に対して躊躇なく暴力をふるう人は「自分は正しい・相手は悪」の図式を信じて疑わない心理状態に陥っていることがものすごく多くて、夫婦間から国家間まで、ヒトの関わるあらゆる関係に於いてその心理状態に侵蝕されるおそれがあるふうに思う。「クジラやイルカを食べる風習=悪」とする愛護団体もそうだし、 一方的に「児童ポルノ」などと悪にしか聞こえないような呼び方をしながら「漫画の描写方法や特定の性癖=悪」とする自民党公明党石原慎太郎、かれらは糾弾の対象である特定性癖の人たちとの対話はおろか、守ると掲げている子供たちとすらろくに対話しようとせず、ひたすら「弾圧」と「保護」だけを声高に叫び続ける。あるいは愛護団体は「イルカを食うことを止めろ」という意見だけを押しつけにいく。どの場合に於いても深く関わる者たちとの対話がいっさいなく、我こそは正義と信じ込んでいる側の考えの押しつけだけが行われる。形や程度こそちがえどこれはナチスユダヤ人を虐殺していた心理状態であり、まともではない。本来的に、事態を本気で改善しようとする者は「なにかをこの世からなくす」などという考えはもっていないはずだ。「なくす」と「改善」は同義ではない。改善とは全ての者が納得した上での譲歩を指すのであって、対する前者は破壊して消し去ることで真反対のものだ。本当に「改善」を望んでいる人間ならば、まず対話のテーブルにつくことを強く要求するのではないのか。なぜ「相手を消し去る」ことが最初から要求され続けるのか?存在抹消を要求する存在がその者たちにとってそんなにも不都合なのか?
教育機関で「ナチ=悪」と教えるのなら、現在も公然とその心理状態を公使している人たちのことも教えなければならないと思う。ナチがおそろしいのは「自分こそ正義」の思想を人の心に刷り込ませた上で多くの人々の手を非道の血に染めさせたことであって、いまもそれと気づかずに善を自称してまわってはナチと同じ凄惨な暴力をふるいつづけている人たちがいるからです。


痛い目にあって損をするよりもおとなしくして儲けていたほうが得だ。知識や精神的自由など日々の生活を守ることに比べたらなくなったって我慢できる。反乱の一切ができない去勢された精神はあらゆる場所に染み付き、労働環境の改善の申し立てすらろくにできない。親も子も孫も虐げられる。それが栄誉なのだと「正義」はのたまう。つらいとは思いながらも損することはしたくない。これが弾圧なのかどうかの判断がつかない。北朝鮮の指導者は肉体的衰弱によって民衆を弾圧しているのに対し、中国の指導者は豊かさという真綿で民衆を精神的衰弱に追い込んでいる。民衆はこれが衰弱かどうかすら判断がつかない。損得でしか判断ができない国民は末端までが自分の保身しか考えない。どちらも都合のいい奴隷である。


「ひどいこと」であろうとなんであろうと、客観的に判断させることを促す創作物をみたりつくったりできないような決めごとを国家が取り入れるというのは、民衆にとっての判断材料をなくすことにほかならない。それが進めばいずれは中国や北朝鮮のように精神的に去勢された「従順な」人間だけが「善」とか「正義」とかいわれるような気色悪い状態になってしまう。「人がつくったものをなんでもみられること」は民主主義国家の国民のものすごい大事な権利なんだよ。


正義を自称する人たちが漫画を弾圧するために「描く」ことと「実際に行使する」ことをごっちゃにして危険だ!なくせ!みたいに主張してるけど、ちょっと考えればぜんぜん別のことです。漫画をなくしたい人全員の読書歴の公表を求む。日本人全員の正義を自称するからにはそうとうなモノをお読みでしょうし。シャレじゃなく公表してもらえばいいと思う。