頭の固い年輩の警察関係者さんとか、日頃あまり創作物に触れない方に読んでほしい

ゴーストタウンに車で乗り込む少年兵たちの姿は、”子供の王様”を想起させました。まるで、戦争さえも遊びのような。
「だからこそ、彼らは”危険な兵士”と呼ばれていたのです。殺人の自覚がなかった。大人たちの操り人形のように人を殺していたのです。指揮官はそれを意識していたけれど、子供たちは麻薬を使われていたこともあって、自分たちがやっていたことをきちんと認識していなかった。それに、グループで行動させられたことで集団心理が働いて、他人と一緒に前に進んでいくしかなかったということもあります。そうするしか他に生きる選択肢はなかったのです。進んでいくしか道はなかった。あの橋の上のシーンは、実際にあの状況を体験した人と俳優とが混じって演じているのですが、ここでも人を殺して進むのが嫌なら、自分が殺されるという状況を描いています。ある子供に人を殺したのかと尋ねたら、こう答えました。”人に向けて銃を撃った。すると、その人は倒れた”と。些細な違いですが、彼ら自身には殺人をしている認識はなかったのです。また年齢によっても、その認識は違っていました。NGアドバイス[*映画中のキャラクタ]は殺人の自覚のない年齢でしたが、反対にジョニーは15〜16歳で、ちょうど死に対する自覚が生まれてきて、人間らしさがほのかに表れてきています。だからラオコレを見つけても、彼女を逃がすし、彼女のことを恋しているような素振りも見せる。ジョニーはそこで人間らしい感情を少し見せることで、人間らしい人生を歩めそうな感じを抱かせます。そんな年齢によっての違いもありますね。」
その殺人の自覚のないNGアドバイスが、自分が可愛がっていた豚が仲間たちの食糧となって殺されて、落ち込むのは皮肉ですね(笑)。
「(中略)彼らは実は子供なんだとういうシーンですね。彼らは暴力的な行為をしながらも、誰かに愛されたい、誰かを愛したいという子供じみた欲求があって、それゆえにNGアドバイスは”これは僕の豚だよ”と言い張るのです。ひどく残虐なことをしている面と極めて子供っぽい面が、ひとりの人間の中に同居しているというのも、戦争が見せるコントラストのひとつと言えますね。そして、それが少年兵の現実なんです。彼らと付き合って、時に困ってしまうこともあって、それはまるで2歳の赤ん坊のように抱っこして慰めてならないといけないときがあって、にもかかわらず次の瞬間には、その同じ子供がとても成熟した大人のような振る舞いをする。ただ、絶対に彼らの年齢に相応しい態度は見せません。彼らはまだ、自分自身の年齢を取り戻していないんですね」
撮影中、元少年兵たちの様子や変化はどのようなものだったのですか?
「もちろん、彼らは強いトラウマを受けていました。衝撃的な心の傷をです。自分たちが生きてきた戦争を、いろんなシーンで再現し、演技していくことで、自分たちが何をしてきたのか、どういうことをしてしまったのかを理解できるようになりました。自分のしたことを認識することで、受けた心の傷を外に出していくような役割を果たして、彼らは少しずつ成長していったのです。それまで子供たちは毎日、その日暮らしの生活を送っていました。内戦下では未来のことは考えられませんし、教育を受けることもできず、支えてくれる家族もいません。そんな子供たちが、15歳でどのような人生を始めればいいのかといっても、見当がつかないはずです。私たちと信頼関係を築いて、必要最低限の愛情を感じて初めて、彼らはようやく変わり始めました。そうして、初めて子供時代を生き始めたのです、愛される子供時代を。そういった段階を経ずして、子供たちが心の傷から立ち直っていくのは難しいですね。」』

昨日はクロッシング(ユーロスペース)→ジョニーマッドドッグ(えぬ)→ああ爆弾(神保町シアター)とみまして、上記『』はジョニーマッドドッグのパンフの監督さん談から抜粋したモノ。血眼になって漫画規制だの創作物の一部要素を悪呼ばわりして、特定の年齢の人からそういったモノを読む権利を剥奪しようとしてる人たちの言いぶんからすると「凄惨な映画の脚本や絵コンテをみた子供は全員誤った知識をもった凶悪犯罪者になる」ということになりますが、どうもジョニーマッドドッグの撮影に際してリアル少年兵たちとじかに触れ合った監督さんの実体験では「創作物を通して自分の行動を見つめ直して心の傷が癒されていった」というお話ですが?
漫画やゲームが人間を悪にするって?ふざけてんじゃねえ。この世の地獄は読み物がぜんぜんない場所で、他者を否定するところから発生するんだよ。
人間の内部にはいったい何が潜んでいるのか。それがどんな種類のものであれ、わたしたちには冷静にみつめる権利がある。これを民衆から奪い去ることを国家権力が取り入れはじめれば、ナチスポルポト北朝鮮と何ら変わらないこと―自分の欠点やあやまちを指摘してくれる他者を存在しないことにするためにあらゆる非道な行いを始めるだろう。正義の名のもとに公然と。都合の悪いことを「見せない」「語ってはならない」この観念がいかに歪んで暴力的であるかを民衆は気づかないだろう。一部の性癖のものだからいいだろう、一部のひどい血まみれものだからいいだろう。人間が行うあらゆる行動、人間の紡ぎだす物語を彩る要素に上下などない。すべて「人間の行動」以外のなにものでもなく、血がでてるから、裸だから「下のもの」「劣っている」だとか、恋愛だから「上等なもの」という思想は差別である。どの要素も「人間から発せられたもの」という点で同等であり、作り手・鑑賞者の双方がいかなる捉えかた、扱いかたをするも自由である。これは民主主義を名乗る国家の民衆が手にして当然の権利であり、なにものも侵してはならない。
創作物は人間が犯しうるあらゆる言動を映し出す鏡であって、自分以外のだれかの視点で濾過され、客観的に描かれてこそ自分の行いを冷静に見つめ直すことができるようになる。おまえのやっていることはこういうことだ、突き詰めればいずれこういうふうになるぞ。もしくは一般的には思いつかないようなことをする人がこの世界にいる、ということがわかる。学びにならない描写などこの世にはひとつもない。たとえそれが金儲けのためにつくられたものであったとしても、いつも流行に飢えている大衆には簡単に食いつくされ、目の肥えた人々からはすぐに見抜かれてしまうだろう。これまで日本の漫画の作り手たちはさまざまな仕事をくぐり抜けてきた経験から、たくさん売れるものがそう簡単にはできないことくらい重々わかっていると思う。幼い子供の心を揺り動かす作品づくりに心血そそぐということは、すなわち子供に対してひとりの人間として真剣に向き合っているということだ。「子供を食い物にするな」って?子供を「幼いから」といって切り捨てた上で能力を侮っているのはいったいどっちだ。物語をよむことがどうして「害悪」とされる?そして凄惨な描写があるからといってどうしてそれがその子にとって「学びにならない」と断言できる?その子が将来物語の紡ぎ手だったとしたら?
子供の成長を見届ける立場にあるおとなは子供と向き合って、毎日よく話を聞いてあげてください。たっぷり愛情を受けて心の根っこがしっかり育った子は、人間のどんなひどい有様を描いたものをみても動じることはない。ジョニーマッドドッグの孤児たちのようなひどい目に遭った子でさえも、創作物を通して自分や他人、もしくは社会や国のことを見つめ直すことができるようになる。創作物の描写に「悪」などない。「悪」があるとすれば、「悪」について考えたり見たりできないようにする奴だ。だれかがあれは悪だ!と叫んでいたら、頭ごなしに消し去るのではなく、じっとみつめてみよう。それがなんなのかわかるまで、いろんな人が見つめ続けること。なくしてしまったら何なのか考えることができなくなってしまう。白日のもとにさらしてみんなで考えること。これがいちばん人間らしい生き方なのだと思う。
物事を判別する前に「この世からなくす」こと、ひいては「(やっかいものを)殺してしまうこと」はすべて逃げだと思う。逃げつづけていたらいつまでたっても問題は解決しない。
「子供を信用しない」ことが虐待の一種であるということに気づいてください。
漫画の表現に関して「規制してる国が進んでいて規制してない国は遅れている」という刷り込み発言が各方面で恥ずかしげもなく行われているそうですが、あんたら世界中が「ユダヤ人を虐殺することが進んでる国」つったらそれに従って虐殺するのかよ。思考停止の奴隷根性もいいかげんにしろ。ガス抜きを禁じた状態で性犯罪がうなぎのぼりになっている事実にすら触れられない気色悪い状態になってるってのに。欧米の知識層のヘタレっぷりなんかお手本にしたらだめですよ。そもそもイシハラの人って鬼畜米英的な発想なんじゃなかったの?すっかり飼い犬に成り下がっちゃって。日和見的という意味ではご立派な傑物に成り上がりましたことですわね。

虐待といえばクロッシングは肉がえぐれるほどの暴力をふるいながら「愛してると言え!」「俺をほめろ!」とかむりやり相手に言う事をきかせようとするDV夫のようなふるまいを1国の指導者が民衆に対して行っている北朝鮮での市民の生活と脱出に際してのありさまをリアルに描いたものですが、たべものがなくて痩せさらばえて風呂も入れず黒ずんだ大人や子供の日々の生活も悲惨ですが(うわー今日はごちそうだね!あれ?ポチは?みたいな貧乏あるある描写あり)、出稼ぎにいったお父さんのあとを追ってこうとした少年が国境でつかまってぶちこまれる収容所が陰惨でひどかった。幼い子が北朝鮮兵士から蹴り殺されたりもう生まれそうな妊婦のおなかを乱暴に蹴ったりするのは日常茶飯事だし、休む部屋は横たわる場所もないほど人員が満杯で、全員が石の床に正座しっぱなしでえんえんと将軍様をほめたたえる言葉を大声で唱えさせられてたり、怪我負っても治療なんかしてもらえるわけがないのでヘンな噂(ネズミの皮膚を貼ると治る)を真に受けてそのとうりにしたら傷がよけい悪化して蛆がわいたりとひどい。脱北したお父さんがどうにか少年を呼び寄せようと各機関に金にぎらせて収容所からは出してもらえるんですけど、基本的に国境線を超える自体は各人の努力にゆだねられてて(逃亡ブローカーが国境越えるのを直接手伝ったらお縄になってしまうので、何メートルか手前で車から降ろされる)、その際に警備隊にほとんどがつかまってしまうわけです。仮に国境線越えられたとしてもモンゴルの砂漠だったりして、北朝鮮以外の国へいくにも何十にも乗り越えなければならない苦難が張り巡らされてて、行くも帰るも地獄状態。事実を口に出せず、民衆間がつねに疑心暗鬼の状態でお互いに殺し合う国。異質な者を信用せず、ひどいものを見れないようにする発想のいきつく先はこういう国だ。過剰なまでの清潔妄信とそれに伴う「汚れ」への嫌悪(どちらも漠然とした知識しかないにも関わらず信じ込みすぎてしまう)はそのはしりにも思える。自分をおびやかすものはなんであろうと許せない、という神経症的な感覚に基づく「自分以外の存在の否定」。それが病的であることに気づかない時点で病がかなり進行してしまっているのかもしれない。寛容は多くの人がより平和に暮らす上でなによりも大事なものです。

ジョニーマッドドッグはおとなからいいように利用されて鬼畜と気づかず鬼畜をくりかえしているリベリアの子供たちの話。なんか鬼子母神を思い出した。それというのもガキんちょ特有の天真爛漫な残酷さ―虫や小動物をプチプチ殺すような調子でマシンガンぶっぱなしまくって大量殺戮しまくってて、いかにもひとの痛みなんかまったくわかっていないふうなようすだったので。映画のっけからこの少年ギャング団の躊躇のない殺戮・破壊描写がガンガン続いてて、この子たちはもうしぬまでそれがどういうことかわからないでいるのかなー…と思ってたらギャング生活が長い年長の子(中学〜高校生くらい)がセリフでは言わないんですけど、なんとなくこういう血も涙もない行動をしてたらいつまでたっても…みたいな指導者を疑うふうな思いをすこししはじめてるふうな描写があって、それに加えて残虐な言動ばっかしてた小学4年生くらいの子が爺さんを殺して奪ったブタを抱えているうちに情がうつってしまって、ギャング団で食うとなった際に取り乱して拒否したりしはじめる。この子たちをこのように殺しに躊躇のない子供に仕立てあげてるのはある男なんですが、家電量販店の朝礼じみた大声での合い言葉の復唱や歌はもちろんですが、夜にたき火かこんで歌ったり踊ったりと「儀式」ふうなことをやったり(ヒフに傷をつけて麻薬をすり込む)等の意気高揚させながらの「教育」風景はどうも土人さんの部族の祭ふうの雰囲気で、なんとなく土人に民主主義はまだ早いを思い出したりした。第9地区でもヨハネスブルグのギャングがエビ星人の遺伝子認証兵器を使いたいがために「パワーを得るため」と称してエビ星人の肉体に生でかぶりついてたりしましたが、あれも肉体を喰えと促してるのが呪術師風の人で土人さんの儀式臭ふんぷんだった。ジョニーマッドドッグの少年ギャングたちは年齢特有のピュアな残酷さでもって兵士でもなんでもない市民を脅していいがかりつけては撃ち殺して奪うくりかえしで、銃を持ってないと話すらろくにできないヘタレ暴君な言動をみせる反面、おとなの軍隊がきても特殊部隊ばりの手慣れた展開でさっさとプロの兵士たちを完全駆逐したりと、子供ならではののみこみの早さでおとな顔負けの技術を完璧に身につけている無敵なありさま。とはいうものの自覚はしてないけど漠然とした恐怖(いつ自分も同じような目にあうか)はどことなく感じてるようで、その恐怖から逃れるために信仰にすがるごとく装飾品をたくさん身につけてたり(「これを下げてれば弾が当らないんだ」みたいな根拠のない幼稚な思い込み。「バリアー」みたいなノリの)、あとこれは動物的な力の誇示かもしれないけど、殺した相手の身につけていたものを戦利品として日常的にまとうようにしていることがなんか意識的に描写されていたように思う。それが子供っぽい羽を模したコスプレ風のだったり、花嫁衣裳だったり、女性のものだろうがなんだろうか気に入れば身につけるあたりが独特だった。なにしろいろいろな意味で子供のたくましさをまのあたりにできる作品ですよ。

ああ爆弾はウルリッチ原作だそうですが、そうなのかなあ。なんかことあるごとに能になるあたりはちょっと鈴木清順くさくもありましたが、ぜんたいとしてギャグ映画です。爆弾づくりの得意な瓶底メガネの青年がそのウデを活かしてひともうけたくらむんですけど、そのたびに大事な人がその場に居合わせることを聞かされてあたふたするというアレ。むかしのポンニのコメディ映画ってかならず政治家とか議員とかがでてくるなあ。 みんな判を押したようにギトギトだし。選挙の公約で「税を安くします」って大昔からずっと言ってんのな。あとうんこネタもぜったいでる。