社会は我々を憎む

『カナダの冬は長い。雪と氷に閉ざされ、みな暖かい家の中でぬくぬくと過ごす。長い夜を過ごす相手はテレビ。そしてセックスである。清潔で理知的なカナダ人たちは温室の中で静かに狂っていく。実験室の中でスープが煮詰まっていくかのように。そこはビデオとセックスの実験室だ。』

光のほうへ(12日。シネスイッチ銀座)→クロエ(しね)→レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー(シネパトス)→愛の勝利を ムッソリーニを愛した女(シネマート新宿)→X-MEN ファーストジェネレーション(新宿ピカデリー)→ぼくのエリ 200歳の少女(13日。真文芸坐)とみまして、上記『』内はクロエのパンフの柳下さん文より抜粋したモノ。クロエは熟年セレブ夫婦の妻(ジュリアンムーア)が夫(リーアムニーソン)の浮気を疑るあまりに金で雇った美人娼婦(アマンダセイフライド)を夫にけしかけて、自分以外のおんなの前で夫がさらけだす痴態っぷりを逐一報告させて一喜一憂する話。そもそもの原因がジュリアンムーアが入念に準備した夫の誕生パーティー(来客者多数)を夫がすっぽかしたうえ、その翌日の夫のケータイメールに教え子の女子大生とのツーショット写真が送られてきてるのを盗み見したことが発端で、若いころには始終ベタベタするほどだった夫が年老いたことが理由で自分から離れてしまうこと、それに青春まっさかりの息子が自分ではなく夫にだけ本音を打明けること、そんなふうに心のよりどころであるはずの家族とのつながりが断たれゆくような出来事が重なって、孤独感にたまらなくなったムーアは部外者である娼婦のセイフライドに夫の未知の顔を観察させたうえで語らせて、間接的に夫の本心に触れようとする。これがプロの探偵に依頼したとかならなんの問題もなかったんでしょうけど、セイフライドは自分の魅力を売る娼婦としてはプロであっても、自分の心に関してはプロに徹することは難しかった的な展開になってゆく。なんつーかハメ撮りでもして動かぬ証拠的なもんを逐一提出とかすんならまだしも、口頭での語りのみを頭ごなしに信じちゃいかんとゆうアレ。ネタバレで書くとセイフライドがムーアのことが好きでリーアムニーソンと逢引したという嘘をつきつづけてるんですけど、セイフライドがムーアに恋愛対象として好意を寄せる理由になんだか自分の母親をダブらせてる的な描写がチラッとニオわされて、そのわりに掘り下げて描かれないんでなんか消化不良なんですよね(参照)。母親にレズビアン的な欲求を持っていたのか、それとも母親からそのような対象にされたのか。そういえばムーアに逢引報告して別れる際に、セイフライドが乗ってきたチャリにまたがって走り出そうとして雪道でキャーてコケるシーンがあるんですけど、あんなゴージャスな風体でチャリ乗りってのがなにげなく謎。ムーアを引き止めるためにわざと乗ってきたのやもしらんけど、セイフライドのキャラに関してはいちいち変わった嗜好描写がさしはさんである。ムーアに関してはわりと最後のほうまでリーアムニーソンが誕生パーティをすっぽかしたことを根に持ってんですけど、勝手に企画しといて「なんで帰ってこないの!」てまるで相手が悪いような怒り方すんのはちょっと身勝手じゃないか。相手を自分の思い通りにしたいばっかりでさ。そういうとこがヤで旦那も息子も本音いわなくなっちゃったんじゃないのか。そんなにもびっくりパーティをしたかったのなら何が何でもその日には帰宅さす段取りまで仕組まないと。そもそも旦那のリーアムニーソンのほうもセイフライドとは何もなくても誕生日すっぽかして女子大生と遊んでたのは事実ですからね。なんかラストのほうで俺は清廉潔白なんだよ!みたいなシーンありますけど、この人はふつうに浮気してると思うよ。そうそう、あとセイフライドのパイオツよりもジュリアンムーアのパイオツのが形がきれいですよ。乳頭はピンクだし勃ちぐあいがほどよくエロい。セイフライドのパイオツはデカくてタレぎみ。たとえ顔は美人でもパイオツまできれいとは限らん。

愛の勝利をは自分の理想を実現するために反対する人を暴力で弾圧する独裁政権の頂点に立ったムッソリーニつういかついオヤジにむしゃぶりつき続けて精神崩壊したおばさんの話。実際のムッソリーニはゴーレムちっくな強面なんですけど、映画中ではフレディマーキュリー似の色男なのでおんなが固執しつづけるのもうなづける画ヅラになっています。んでそのムッソリーニに喰いついていくおばさんがイーダさんて方なんですけど、たとえばムッソリーニと政治談義交わしたりといった心の交流がいくらかあるならまだわかるんですが、会話すらろくになくただただかじりついてゆくスタイルで、たとえば勇ましく主張を叫びながらのデモ中に向かいからやってきた軍隊とにらみ合いはじめたと同時に先頭にいるムッソリーニにとびかかってってむりやりディープキスかましたり、未来派(庭園美術館でやってたデペロをみたけど、そんなに物騒な派だったんだねえ)の展をみにきたムッソリーニに近寄って股がノーパンなありさまをみせつけたりとケダモノ感まるだしな関わりかたなんで、しだいにムッソリーニのほうもイーダさんと距離をとるようになる。そもそもムッソリーニには妻子もちゃんといるし、ろくに興味もないおんなにかまってられるほどヒマでもなかったんでしょうな。でもイーダさんとしては知ったこっちゃねえので相変わらずつきまとい続けて、大戦でムッソリーニが負傷すると入院中のとこまで押し掛けてって看病してた奥さんとなによアンタ!アタシが正妻なのよ!キー!みたいにボカスカやったりします。んでムッソリーニにむしゃぶりついた際にもうけた子供が生まれるとさらにつきまとい度をレベルアップさせたもんで、ムッソリーニ自身が命じたのか取り巻きが危惧したのかよくわからんけどイーダさん親子は田舎の家に監視付きで隔離生活させられることになる。イーダさんはさして互いもしらない男になぜこうまで固執するのかというと、たまたま関わった男が国の頂点にたつ人間であることがわかって舞い上がってしまったんじゃねーかなと思う。あの男といっしょになったらアタシも偉くなれる…!みたいなふうに。映画の描写からしムッソリーニの政治思想について考えられてるとも思えないし、漠然とムッソリーニという男とそれに付随する地位やらなんやらを手に入れることにだけ執着してるようにしかみえないんだよね。ごくごくふつうのギャルが得体の知れない存在の「ちから」を目の当たりにして、自分もさもそのちからの一端であるかのように思い込んでしまった的に。そのちからはイーダさんにはないのに、自分自身に目を向けようとはせず分不相応なモノを追い求めることをいつまでたってもやめようとしない。アタシはムッソリーニと正式に結婚したんだ、息子はムッソリーニの子供なんだと。ムッソリーニが首相の座につくと、愛人と隠し子なんてネタは醜聞にしかならないので徹底的にイーダさんは表舞台から隠されて、ついには精神病院に収容されてしまう。それでも諦めきれないイーダさんはローマ教皇だのいろんな偉い人たちに手紙を送りつけてどうにかとりなしてもらえるよう懇願しつづける。アタシはムッソリーニの妻で息子もいるのだと。たしかに事実ではあるんですけど、表沙汰にするわけにはいかんので周囲は徹底して狂人扱い。イーダさんは身の程をわきまえてどこか遠くの地でひっそり暮らしてたりすればこんなひどい扱いを受けることもなかったんでしょうけど、そうゆう知恵すらなくただムッソリーニという人間と近しいのだという事実だけを生涯にわたって叫びつづける。息子のほうは母親と離されて寄宿学校で育つんですけど、ツラもフリもムッソリーニに似てきてモノマネなんかもしたりしてたんですが、末路はやっぱり狂ってしまって精神病院に収容されてしまう。自分はムッソリーニの息子だとブツブツひとりごとを言いながら。自然災害のようなもんで、もしも歴史の教科書に載るような人間と関わってしまったときは、自分をしっかり持って接しないと踊らされてバラバラに破壊されてしまうのかもしらんなあと思いました。あと映画みてる中はあんまし意識しませんでしたけど、パンフに載ってる劇中写真がなんかすごくきれいだな。色とか構図とかなにげにキマってる。

光のほうへはヤク漬け&アル中の母親のもとで幼少期をすごした兄弟ふたりが、おとなになってからも幸せをなかなかつかめずに痛い目に遭い続ける話。母親が毎晩泥酔してくるんで、ほったらかされた赤ん坊を兄弟が面倒を見るんですが、兄弟のほうも幼いのでただミルクをやるくらいしかできないんですね。それはしかたのないことだし、幼い子にそれを背負わせるのは酷すぎる。ある日どういうわけか赤ん坊が死んでしまっていて、そのショックをお兄さんのほうが心の傷として抱えたまま成長してしまった。以来子供をみるたびになにか不安そうにして、彼女とも妊娠のおそれがあることをしたがらない。弟のほうはすでに子持ちなんですけど既にかなりなヤク中で、ヤク買うせいか金がつねになくて子供がひもじがってるとゆうのにヤク打たずにいれない。その後もいろいろあってお兄さんから子供のためにと持たされた大金を売りさばくためのヤクの仕入れに全額つっこんでしまって、ある程度まではうまくいくんですけど結局パクられてブチこまれてしまって、その牢屋のとこでいろいろあってブチこまれた兄と再会を果たす。オチは予想どうりのアレでしたけど、それがこうまで苦しんできた人間の「救い」なのかと思うとやりきれん…。「かろうじて助かった」てレベルだぜ。愛する人のナオミワッツじゃないけど、頑に心を閉ざしたままチャンスも与えられずただ死んでゆく人の痛ましさったらないよ…。ぼくのエリもだけど、北欧らへんの映画って白っぽくてしずかできれいなのに突然暴力がでるのな。しかもゆるい暴力じゃなくて酷い場面にいきなり切り替わる的な。余韻がないとゆうか。いつもの白い画ヅラがぜんぶ余韻なのかな。

X-MENは特殊能力を生まれながらに持ってる人同士で寄り集まって問題に対処してるうちに人類守る側と知ったこっちゃねえ側に分かれてったなりたちについて追った話。人類守る側の統率者になるチャールズエグゼビアはいろんな異人種を集めて仲良くやろうとすんですけど、あきらかに姿形が異様なヒトに対して「人間たちに好かれるように同じかっこに変身してろ」と言い続ける。それに対してエリック(のちのマグニートー)は「そのままの姿でいい。ありのままの自分を誇れ」と言う。エグゼビアの言いぶんて白人至上社会でふつうに暮らすために黒人に対して「肌を白く塗りたくれ」と言ってるも同然なんですよね。自分を隠して欺け、自分という存在への誇りを捨てろと。大多数と対等な関係ではなく上下関係で付き合えと。エグゼビアは異人種のくせに異人種の苦しみがわかってないので、だから友達だったマグニートーを引き留める言葉を繰り出すことすらできない。だからってマグニートーの血で血を染める生き様も極端すぎますけども。この両極端なふたりが手を取り合ってさえいればもしかしたら均衡を保ち続けられるのかもしらんけど、どうも決別してしまう。それは人類側につくエグゼビアがほんとうはなにをすべきか(本当の自分たちを世の中にさらけだして理解を広めていく)をわかっていないのが大きな原因なのかなと思う。隠せば隠すほど事態が悪化することってのは対処が遅くなるほど改善もむつかしくなるだろうね。エグゼビアの冷淡さに関しては大企業の社長が社員ひとりひとりにかまってられないふうな理由もあってのことなんでしょうけどね。エグゼビア&マグニートーの念力コンビに立ちふさがる悪役(ケビンベーコン!!)は核の燃料棒を両手でつかんで「我々は原子の子…」とかブツブツ言いながらパワーアップします。
風変わりな性癖もった人間は弾圧して当然とか叫んでる人がみるべき作品ではあるんだろうけど、このテの人は自分がミサイルぶちこんでミュータントたちを虐殺しようとする側だとは気づかないだろうね。こういう輩に知性の低い政治屋が踊らされるんだから始末悪い。

アイスランド鯨見物殺しは捕鯨禁じられたことが原因で貧しいくらしを強いられてる捕鯨船生活の家族が漂流してきた鯨観光客を殺したり殺されたりする話。キネマジュンポーで椎名誠さんがなにこのクズ映画!期待して損した!てまともにプンスカしてておもしろかった。外国のクズ映画だいすき。くじら見にいくのは高慢ちきかバカのどっちかだよねーみたいな話を劇中人物がしてました。あとエンディング曲がひょうきんだった。とってもしずか〜で最高に昂って死にたい気分!!なんでこう年中さむいとこは落差の暴力が常識なんだろうか。