わが根源は森の奥にあり

森と芸術(5月29日。庭園美術館)は木や森が描かれてる西洋の絵画や挿絵を寄せ集めた展で、特におとぎばなしの挿絵なんか描かれてないもんを探すほうがむずかしいホドに木がかならず画面中におさまっている。展示のしょっぱなには大自然のなかで丸裸で暮らしてたらしいアダムとエバの楽園での様子から追放されるまでを描いた絵がいくつかあって、時代的にしかたなかったんだろうけど陰部が都合良く葉っぱで隠れてる描写はやっぱ不自然だしマヌケにみえてしまうよ。蛇にたぶらかされて知恵がついたあとに恥じらって葉っぱで隠してるならわかるけど、どう考えても蛇と出会う前の光景なのに性器に葉っぱついてまわってるんだよね。そうゆう考えが存在しないからこそ楽園なんだろ。陰部隠し楽園画にはデューラーのもあって、アダムとエバのあしもとに獣たちがいるんですけど、すぐ目の前にねずみがいても猫は興味を示すことすらせずおとなしく座っていて、何者もおびやかさず・おびやかされることのない世界というのはいっさいの干渉が存在しないことなのだなーと思った。「永遠の生」は静止の持続という。アダムとイブが楽園にいる際の絵って大抵ふたりには影がないんだよね。展示説明かなんかにあったけど楽園には「善悪の樹」「生命の樹」「見て美わしく、食べるによいすべての樹」があるとかで、楽園追放された際に2人が生命の樹の実を食べたらしいからつまり死人でいなければ楽園にはいられないんですね。霊体のままでなにも考えずにポケーッとしたままなら楽園にいられるけど、肉体につきものの欲求やその他いろいろむつかしいことを考えずにいれなくなると楽園にもいられなくなるとゆう。楽園挿絵ではホドヴィエツキて人の「人間の原始段階」から「堕落した文明の末路」までの連続画もあるけど、すでに原始段階からしてエバがだらけてるふうなのでオチの絵がさして堕落してるようにはみえないです。寝っころがって頬杖ついちゃってニートくさいエバ。楽園系の挿絵ではドレとかマーチンとかの細密劇画系版画もありますし、ちょいと現代よりのアンリルソー(この人の絵はじめてみたけど、なぜかギーガーぽく思えた。なんでだろ)やゴーギャンなんかもありまして、ちょっと面白かったのがアンドレボーシャンという苗木職人の方の描いた楽園と題する絵。長らく船具商人だったアルフレッドウォリスの朴訥な筆致と似た雰囲気の絵で、2枚あったんですけど「楽園の開花」て絵では画面中央部分で色とりどりの花が密集して咲いていて、次に「楽園」て絵ではそのひとかたまりだった花々がたちまち増殖したかのように所狭しと画面じゅうに咲き誇って木々や岩にもかぶさっているふうなモノなんですけど、特に「楽園」のほうは咲いてる花がほぼ全部鑑賞者のほうを向いてるのがちょっとブキミなかんじがしなくもない。ダーガーの描いた花々のブキミさに似たもんがあるような気もする。カラフルだしすごくきれいなんですけど、同時に咲くはずのない花々の季節無視で狂い咲いてるようなとことか、なんとなくきれいどころを一堂に取り揃えたアイドル写真のような。あるはずのない作為感が楽園をつくるにふさわしいと思ったのかな。「楽園」中に描かれてる多くのハチドリは1羽として花の蜜を吸ってないですし。楽園には食べるための木もあったふうだけど「とって喰う」自体がタブーなんじゃないのかな。楽園を描くに、たとえ幼虫が葉っぱを食べてるところですらNGなんじゃないかと思う。循環が発生した時点で何者かにとっての地獄と化すし。ほかには森に住むとされる半獣キャラの版画だの、サーデラーの森で使う狩猟道具を並べた版画なんかもありますし、あとは都会の生活を謳歌しながら田舎に思いを馳せる趣味の人に愛されたというバルビゾン派っつー木々や森といった風景画ばかり描いてた画家たちの絵がいくつか。木々の輝くゆらめきを捉えたもんを家んなかに飾るのはさぞ贅沢だったでしょうね。展示説明に『彼ら(バルビゾン派)は当時の風景写真を利用し、写真家のほうも彼らの絵をまねて風景写真を撮っていました。』てあったけど、まんまピクトリアリスムですね。とりあえず木を描くのが目的らしいので、たとえ題に「二人の農夫と犬」て題がついてても農夫と犬は画面のすみっこに超ちっさく描かれてて、画面の真ん中には巨大なまがりくねった木がふてぶてしく描いてあったりする。人間なんかいらねえんだよ!木しか描かん!みたいな乱暴さ。この系列ではテオドールルソーの「森の中の猟犬」てのとクールベの「オルナンの渓谷」てのがきれいでした。どっちも森の暗く鬱蒼として静かなたたずまいを描いていて、明るい部分との落差をキチッとつけて描いてるんでわかりやすいし。クールベのは中央に描かれた鬱蒼とした木の背後が青空になってるせいもあってちょっとマグリットの光の帝国に似た雰囲気の絵だし、ルソーのは暗い木々の間から落ちるこもれびをハイライト多用で輝きを強調しながら、遠くの青空に飛ぶ鳥を暗い森のなかから見上げている猟犬のようす。メリハリがあるモノがやっぱし目立つ。おおむね森という自然を好意的にとらえたふうなもんが多いすね。恐怖感はニオわせる程度でマジにこわさを感じさすようなもんは出てない。展示の合間にガレのガラス動物像がちょこちょこおいてあってなんか可愛いかったし。ガレのはヌーボーのコーナーでかなり展示されてて、こう電気つけるとちょうど黄昏どきのかんじになる森ランプ(正確には「風景文ランプ」)とかすごくきれいだった。ガレのってニセモノがよく出回ってるらしいけど、上から下までいいかげんに済ましてる部分がぜんぜんないよ。てっぺんからつまさきまで美を徹底してるっつーか。なにしろガレ作品は庭園さんの館風体にピッタシね。あと門から館にいたるまで木々が鬱蒼としてて、あー庭園の企画者さんはこのありさまを来館者にみせつけたくてこの時期にこの展をやったんだなーとしみじみしました。おいらがいったときは小雨が降ってたんですけど、いろんな種類の葉っぱがしっとり濡れて緑の洪水でしたよ。関係ないけど展示ブツにあったドニの聖母月ってのみて、キリスト画ってみようによっちゃハーレムにみえなくもないよなーと思いました。男(キリスト)1人に取り巻きの女が10人くらいいたりして。そういえば朝日夕刊にもとりあげられてたセリュジュの「ブルターニュのアンヌ女公への礼賛」て絵で、草の芽を贈呈されてる女性の顔が背後の木々らしきもんの緑(青?)色が透けてるふうな色使いで塗ってあるけど、つまりあの女性は木や森のような存在であるということなのかな。なんかもりって漠然と女性器のメタファー的にいわれるモノですし、そこらへんをもっと全面に出してもよかったんじゃないでしょうか。ちょっとつっこみたりないような。森でゲージツつうたらもっときわどいネタいっぱいあるような気がすんですけど。展示後半でシュルレアリスム作品がわりに出てたんでまあこれ以上いわんけどさ。オッペンハイムの「鳥の足をもつテーブル」がツボだし。トリはもりと切り離せない。丸テーブルからトリのながい足が生えててなおかつテーブル表面にトリの歩きまわった跡があります。机と美術展にだしてください。キャリントンの「狩猟」つう森のモノを縛り付けて運んでる被虐味ふうな絵もおもしろいですし、エルンストの葉っぱをこすっただけの模様をもとあった場所に巨大化さして置くとたちまち異物と化す作品とか、漫画でよく使われる回想シーンふうなキャッチー描写を超現実絵としてまんま使ったマグリットのおなじみのアレとか(マグリット作品のいいとこって印刷映えするとこだよね。持ち味や意図は印刷後のほうがかえって鮮明に伝わる始末だし)、岡本太郎が撮りまくった日本の原始を思わせる写真(沖縄久高島の神聖な場の「なにもなさに驚嘆」したってくだり面白いすね)とか、あと岡本さん関連では「森の家族」つー両側のドギツイなにかに挟まれた真ん中で苦しそうに縮こまって身をよじらせてるなにかの絵がありました。キツイ家族そう。あそうそう、あとジャンアルプのまるっこい作品が可愛いかった。彫刻に照明があたって壁に影ができてたけど、その影も可愛いかった。みれてよかったけど、森と関係あんのかなアレ。