日本のテレビ番組は「健常者の見たがる障害者」像しか映さないよね

この愛のために撃て(14日。スバル座)→人生、ここにあり!(シネスイッチ)→デビルクエスト(角川シネマ有楽町)→ヒマラヤ 運命の山(ヒューマントラストシネマ有楽町)で、この愛のために撃ては看護助手の主人公が、重傷の急患患者の息の根を止めにきた男を目撃してしまったことから身重の妻を人質にとられて誘拐犯の命令に従わざるをえなくなる話。奥さんをさらってった輩の要求が、主人公がジャマして息の根を止めそこなった重傷の患者を指定の場所まで連れてくことで、警備でついてた警官をうまいこと出し抜いて病院外まで連れ出すことに成功するんですが、連れ出した患者は裏社会で生きてきた猛者らしくて隙をみて主人公を振り切ろうとするんですけど、主人公も身重の妻への手がかりをなくすもんかとばかりにがむしゃらに喰いついて離さない。そうこうしてるうちに患者の男の腹の傷が開いてしまったのでアジトに身を隠して看護助手の主人公が手当をするんですけど、そのときにみたテレビでこの患者が殺人犯として手配されてるということと、看護助手の主人公もついでに指名手配がかかってることを知って慌てて刑事に連絡して無実を訴えるも、連絡した刑事よりも早くなぜか別の刑事がアジトに踏み込んでくる。ここで患者と主人公が機転きかせて脱出にこぎつけるんですが、患者はその道のプロなんでうまいこと逃げちゃうんですけど主人公はふつうのヒトなので街から地下鉄までひたすら全力疾走で逃げ続ける。展開がすっごいテンポいいのにくわえてドキドキ要素(臨月の妊婦を薄着のまま引きづり回す・敵陣のまっただなかにもぐり込む)の差し挟みようが絶妙ですばらしい作品でしたよ。むしろアメリカのアクション映画なんかより容赦がない(女性がわりに残虐な殺され方したり残酷だったりする)ぶんサスペンスフルだしかっちょいい。最近のアメリカのサスペンスアクション映画にでる悪役にはこの冷酷さがどうも欠けてる気がする。スジとしてはポリの上層部が極悪犯罪者である重傷患者のヒトにある事件の濡れ衣おっかぶせて消そうとしてて、それを知った患者のヒトが無実を証明するために看護助手の主人公と共に警察署内部まで潜入して証拠映像を盗みにいくんですが、お尋ね者ふたりがどうやって警察署のなかにもぐりこむのかというと患者のヒトの裏社会ネットワークをフル動員さしてこの警察署周辺で犯罪を同時多発さすんですね。ビジュアルが完全に暴動入っててなにこのタイムリーすぎる画ヅラ!!とかじーんとしましたよ。街のあちこちで強盗やらなんやらおきて警察署がごったがえすわてんてこまいまいだわなので、多少アヤしげなのがいてもだれひとりなにひとつ気にしないわけです。んで患者のヒトが刑事役として看護助手の主人公をいかにもつかまえたふうなかっこうで署内へ入ろうとすんですけど、その前に主人公が刑事役やりたがってゴネたら「あんたはツラが善人すぎて(刑事にみえなさすぎだから)だめだ」て患者のヒトから却下されてた。何回も書くけど「やったらいけない」ことをぶつける的な展開の波状攻撃されるとたまらんですなー。妊婦を乱暴に扱ったりとか、追って来る連中のアジトに踏み込んじゃうとか。スリルって相反するモノを接近さすことからより激しく生まれるのな。あたりまえのことなんだけど、この作品みて強く思った。あの患者のヒトは裏社会の仕事人なんでそれまで汚い仕事をいくらもこなしてきたんだろうけど、落とし前をつけるという目的があるかぎりは主人公のような善良な市民と共闘しうる存在にもなるんだな。ラストのオチまでちゃんとカッコいいよ。あとフレンチ人の映画はどうも中年以上の男女がやたらにかっこいいよ。

人生、ここにあり!は精神病院に収容されてるヒトたちが自立して生活できるようなシステムをつくった実在のイタリアの方をモデルにした映画だそうで、主人公のネッロさんはもとはファッション関係の会社の労働組合員だったんですけど、やる気がありすぎるのが原因で煙たがられて精神病院の組合にまわされちゃうんですが、生来の生まじめな性質を精神病院でもフル発揮してふつうのヒトに接するのと同じように患者さんたちと誠実に接してった結果、徐々に患者さんたちとも打ち解けたうえ、自立への道が開けはじめる話。このネッロさんがなんかゴリゴリの左翼のヒトで、ふつうなら一笑に付してまともに取り合わないような幼稚な意見が患者さんからでても、あくまで権利や平等の理念に基づいた対話を貫き通すことで精神病院の患者さんたちと心を通わせてゆく。ネッロさんは患者さんたちを見下したりせず、どうにか自立へのヒントを引き出そうとして根気よく患者さんたちから「仕事」への希望を聞いてゆく。患者さんたちは精神病院でヤク漬けのまま慈善活動をぼんやりとやらされてるんですけど、封筒の切手貼りのような単純作業ですらどうもうまくできていなくて、でもその作業っぷりをネッロさんがよくよく観察した結果、その作業ができないヒトにはぜんぜんべつの才能がちゃんと備わっていることがわかる。向いてないことを無理やりやらせてるのが原因なだけなのに、病院側は「精神病みだから単純作業もできないんだろう」としか思ってない=精神を病んでいるという視点でしか患者をみず、才能や個性が備わっているかどうかなど考えようともしないんですね。んで多数決できまった寄せ木張りの作業をすると最初はあやしい雲行きだったもののだんだんうまくなってきて、それでも「精神病者の仕事」という偏見からネッロさんが営業してまわってもどうも注文がとれず、しかたなく左翼仲間をなかば脅迫する形でむりやり店舗の床張り仕事をもらったものの、作業当日にネッロさんがいないこともあって頓挫しかけたんですが、患者さんたち自身のとっさの機転が功を奏してうまくいく。その仕事のよさもあって注文がだんだんふえていって、施しではなくれっきとした儲けが入ってきたこともあってネッロは病院から離れて患者さんたちの住居を借りることにする。それに伴って患者さんたちを廃人然とさす薬の量をへらすよう精神病院長に訴えたところ、院長は激怒して患者たちの危険性を唱えて許可しないものの、ネッロさんの考えに賛同する医師を味方につけてそれもどうにか通してしまう。病院から出られた患者さんたちは一般のヒトとごく同じ欲求を発散することを求めてきて、男子はまあセックスなんですけど、好き勝手やらすとたいへんなので売春宿バスツアーとかでスッキリさしたり(これでもにた場面があるけど、だすだけで人格180度変わるくらい大切)していろいろ順調にいってたんですが、ある男性患者さんがお客さんの家で床張りしてるとき、その家の女性にホレてしまう。その患者さんはわりとイケメンなんで女性のほうもかるい気持ちでチューしたりしてしまうんですが、誘われたパーティでその男性患者さんの深刻な病みっぷりがでてしまって、女性がドン引きしたりしていろいろ台無しになってしまう。病院外の世界の経験が極端に少ないこともあって患者さんたちはなにに対しても異常にまっすぐで、それは自分の欲求に於いてはなによりも強いので、女性を好きになるにも小学校3〜4年生くらいの知識しかない状態で突っ走る的なことしかできない。そんな状態で「精神病者」であることの社会との断絶落差っぷりがいきなりでてきてしまったうえ、はじめての恋愛に破れて男性患者さんはもうひどく落ち込んでしまうんですね。恋愛ってさ、精神を病んでいないヒトでも心にかかる負荷がひどいじゃん?うまくいけばいいけど、うまくいかなかったときには誰しもが死に肉迫するくらいどうしていいかわからなくなるんだよねえ。死後も祟ってしまうほど自分がコントロールできなくなる出来事であって、それを感情的経験のすくない精神病者がいきなり浴びたらどうなってしまってもふしぎはないように思うよ。なんかさ…なんか一般のヒトとふつうに触れ合う可能性のある場にでる前にせめて恋愛モノの映画や漫画をたくさんみておいてもらったほうがいいように思います…。あれはちょっと酷すぎた……。体だけ大人のまっさらな子にいきなり恋愛の絶望を味わわせるのはいくらなんでも…。せめてカウンセラーでもつけてあげたらよかった。この事件がおきたことが原因で、患者さんたちに投与するぼんやり薬の量をへらす采配したネッロさんが非難されて患者さんたちは新たな住処から病院へともどされてしまう。ひどく落ち込んでもとの職場にもどるネッロさん。しばらくして精神病院長からまた患者たちの仕事療法指導への打診があるものの、罪悪感に囚われてすべて断ってしまう。そんなネッロさんをみた患者さんたちが一念発起して、ネッロさんのいる職場へ押し掛けてゆく…。スジはだいたいこんなですけど、精神病患者さんたちは過去にヒドいことをしでかしてしまった前科もちなんですが、それにはなにかちゃんとした理由があるようで、推測なんですけど「向いてないことをむりやりやらされた(それがうまくできないと人間扱いされなくなった)」的なボタンのかけ違いの強制が根っこにあるような気がする。腫れ物にさわるようにしか接してない(=自分の防御ばかりしている)とそのヒトに備わってるモノがどんなに素晴らしくてもわからないままなんですよね。「精神病」というだけで「病」ではない部分もすべて「病」で片付けてまともに直視しなくなってしまいがちとゆうか。それに気づいたネッロさんもすごいけど、これが実話なうえイタリアではそれ以来精神病院がひとつもないってものすごいよ。日本でもこうなってほしいけど、それにはネッロさんのような率先してく熱いヒトがいないかぎりはマンドクサがってだれもやらんですわね。イタリアの実例では生まじめなゴリゴリ左翼性質が精神病院のいらぬ抑圧を暴いたうえ改善してしまったとゆう奇跡的な合致があったからこそなのかなあとも思うし。たとえ左翼思想を持ってても「病もち」というだけで相手を見下すヒトにはぜんぜんできないもんね。どんな相手にでもあくまで対等を貫くってのはすごいことだし、それこそが改革の根本的なちからでもあるんだね。にしても精神病院での人権剥奪っぷりときたらひどい。「抑え込まなきゃいけない部分」と「抑え込む必要のない部分」を別個に把握されずに、前者があるというだけでほかすべてが病んでいるという認識のもとで対処をされている=薬を大量に投与されて病人としてしか扱われない。それは世話をする側がめんどうくさいからって効率を優先したことが原因だよね。ひとりずつ特性見出すのってすごく大変だからな。でも福祉ってそうゆうことだよね。

運命の山は登山の才能をもつ兄弟が遠征隊に参加してすごい山に登るんですけど、頂上までが過酷なのでお兄さんだけで頂上めざして登ってたら追っかけてきた弟が足手まといになりまくってしぬ話。ひどい山は下りるのにザイルが不可欠だそうなんですけど、弟はザイルもかけてこないうえ食糧すらろくにもたずにただついてきたんで、登ってきたルートからは下りれないし酷寒で体の端々が凍傷&飢餓だしで瀕死になるんですけど、お兄さんは登ってきたほうと反対側の武装ゲリラがうようよいるほう(アフガンかなんか?)になんとか降りてって生き延びる。下山は兄弟でしてきたんですけど、ふたり共そうとうヨレヨレで相手のことを気づかうなんてできないくらい弱ってて、お兄さんがなんとか歩を進めてるうしろで弟が力つきてしまってへたりこんでて、そこへ雪崩がきて弟が埋まってしまう。これは実話らしくて、生きて帰ったお兄さんが「弟を見殺しにした」とか糾弾されるんですけど、今作の描かれ方をみたかぎりではこれは助けられなくてしかたないかんじでしたよ。飢えてて凍傷の状態で自分以外の人間も助けろってのはちょっとむりっぽい。パンフのメスナーさんインタビューで「デスゾーン」のことが書いてあるけど、ひどい山って酸素がなさすぎて頭のなかがカラッポになって脱脂綿が詰まってるふうに感じる危険地帯があんのね。それにくわえて嵐・落石・雪崩てまさに地獄巡り。兄弟ふたりで頂上から下りてくる際、色々むりっぽいのであとからきた2人に助けをこうんですけど、なんかこの2人が「その場所まで登れないから」て救難要請を拒否するんですね。でもこの2人はすぐあとにちゃっかり頂上までいって下山もしっかりしてるんでほんとうは助けられたっぽいんだけど、先に登った兄弟に嫉妬してかなんかぜんぜん助けたりしてくれずにさっさと帰ってしまう。映画の最後のテロップではこの2人のうちの片割れがのちに自殺してしまったらしいんですけど、このときの罪悪感に悩んだすえだろうとは社長談。この2人はやっぱり「最初にナンガ(ひどい山)に登頂した人間」としての名誉がほしくて、兄弟は死んでくれてれば都合いいなーとか思ってたんでしょうね。こうゆうひどいとこのぼる登山家たちは「最初に登頂した」名誉というのがなによりもほしいものらしくて、現に登山の世界では先に登った兄弟の名は有名でもあとから登ってきた2人の名はまったく知られていないでしょう、とは社長夫人談。先に登った兄弟でも結果的に生き残ったお兄さんの身体能力と才能が突出してて、その後もひとりであちこちガンガン登ってるんですけど、後からついてきて死んだ弟ってのがお兄さんほど能力がないみたいで、でもやっぱり登山家としての名誉はどうしてもほしかったんだろうな。でなきゃ無装備でお兄さん追いかけるなんて無謀はしないだろうし。地獄で欲求むきだしにすると即しぬってことですね。あと兄弟がひどい山登る機会をくれた遠征隊の隊長さんと兄弟はどうもソリが合わなかったってのもなんか雲行きの怪しさの一因になった気も。今作ではこの隊長さんがちょっと気取ったイヤミったらしいかんじのオヤジでしたけど、社長の話ではこのヒトはかなり立派な登山家だそうです。パンフには生き残ったお兄さんのご尊顔が載ってますけど、なんかこうイエティ的な体毛の濃さですね。酷寒にいるせいなのかな。前半にこの兄弟の子供のころの話がすこし描かれて、ちっこいなりで崖はすいすい登っちゃうし教会では祭壇から天井まで登るに必要な歩数とか考えてるしでなんか微笑ましかった。
追記(8/19)。夫人によると「どんな山でもシェルパがとっくに制覇してる」とのこと。登山モノや探検モノの多くは白人の野望についての物語なんですな。

デビルクエストは魔女裁判にかけようとして護送してた女が悪魔で慌てるニコラスケイジとロンパールマン。ソロモンの祈祷書よんだら悪魔が焼けこげてた。ケイジたちは十字軍兵でイギリス人だからラテン語よめないってゆう設定なのかな。つうか当時の兵士は識字率低いからか。最後にでてくる悪魔がなんかカクカクしててちゃちかった。CGなのにストップモーションのようなぎこちなさってどうか。
 
本日題については障害者自身の見せたがるもんはぜったい映そうとはしないよねーとゆう話です。たとえば小人プロレスとか。健常者がみてこまるもんはソッコー潰しにかかってくるし。日テレの24時間テレビの作り手はそのことについては考えようとはしないでしょうね。テレビの人にとって障害者は健常者の涙腺をゆるませるためだけに存在する生き物ですもんね。