マジにやらなきゃならん仕事に取り組んでない事を覆い隠すための思想を掲げてる団体の件



『親切や友情は、もたついてはいけない。くどくどと言いよどんだり、のろのろと手を貸したりすると、親切や友情に湿気がこもる。すると、偽造された情感が入り込む。作り笑い、嘘泣き、おためごかし。駄目だ。親切には素早く火を通せ。親切はさっと皿に盛れ。』(「最強のふたり」パンフの芝山幹生さん文より抜粋)
アラブ・エクスプレス(7日。もり)→レーピン(8日。文化村)→凍える牙(9日。新宿武蔵野館)→新世紀読書大全 トークショー(コピス吉祥寺)→ディクテーター独裁者 身元不明でニューヨーク(武蔵野館)→最強のふたり(武蔵野館)とみまして、最強のふたりは首から下が麻痺して動けない富豪の介護人雇用面接を、失業手当をもらうための就職活動証明ほしさで受けた貧乏な黒人さん(ドリス)が、富豪本人(フィリップ)から気に入られてしぶしぶ重介護をしてくうちに富豪とマブダチになってく話。映画の後半で(ドリスではない)新入りのプロ介護人が富豪を世話するシーンがあるんですけど、なんかプロ介護人は「これをこなしさえすれば優秀な介護者」的な所作優先で介護する対象である富豪の心根をないがしろにしまくるもんで、富豪がうんざりしてプロ介護人にまったく心を開かなくなるんですよね。身体障害者はあくまで「体の自由がきかない」てだけで、そこらにいるヒトと心根とか欲求といった精神面はなにひとつ変わらないというのに、心根すらも「障害者」と勝手にみなして酸いも甘いも噛み分けた大人を一方的に乳児扱いしてくるっつーね…。介護してる人、自分がひどい差別的扱いをしてるとは露とも思わないだろうね。クチを開けばゴキゲン伺いの日和見な物言いしかせず、終始腫れ物に触れるようなおっかなびっくりな態度、対象者の好みを完全にないがしろにしながら「健康のためにはアレとコレを食べろ」。目前にいる人間の考えや嗜好を踏みにじりながら「障害者としてふさわしい生活信条」ばかり押しつける人間と半永久的に暮らさなければならないなんて、まるで魂が何重もの真綿にくるまれて無菌室に閉じ込められるような息苦しさだろう。クチではきれいごとばかり並べてるのに、やってることはそれとは真逆の対象を見下しまくった最悪の差別者っていうね…。「健康や優れた介護のためなら介護対象の個性や嗜好など無視していい」といわんばかりの健康ファシズムの極み。障害者を「かわいそうがる相手」としてしかみなさない、てあたりの心理は犯罪を犯してもいない特定の性癖保持者をハナから極悪人としてみなす心理とまるでおなじもんにみえますね。日本ユニセフが「子どもポルノをなくすためにはまず需要を断たねばならない」という理念をふりかざしてエロ本の廃絶を掲げてるんだけども、それはつまり「小児性癖を持ってるヒトから性癖に沿ったエロ本を取り上げて放り出す」というだけで、なんの解決にもならないうえ危ないことこのうえないんですよね。エロ本とりあげても彼らの性癖はべつになくなったりしませんから。抜き道具なくなったら何で抜けばいいかってもう実物しかねーじゃんよ。単純所持禁止が法律に取り入れられてる国で子供が被害こうむる性犯罪がどんどん増えてるのって、それが理由にしか思えないんですけど。エロ本でスッキリさせていた人からエロ本とりあげたら何でスッキリさせればいいんですか?たばこを取り上げたらたばこを吸うことで満たしていた心の鬱屈はどうやって処理すればいいんですか?「体さえ健康であれば心は見捨てていい」といわんばかりに人間の心や欲求に向き合わないことを至上とする偽善者団体にはうんざりだ。見た目の悪いもんを取り上げろ信条を掲げてる思想団体はつまり「自分が嫌いな物をみえないところへ追いやる」のが目的で、問題を根本から解決する気はまるでないと表明してるも同然だよね。そもそも子供を性暴力にさらしてるスナッフフィルムをつくってしまうような東南アジアやインドのマフィアと戦ったり、口減らしに子供を売るような貧困地域の生活底上げしたりといった物凄い大変な問題に取り組もうとせず、文句がいいやすくて治安のよい日本でばかり活動してるって慈善団体としてはクズ中のクズだよね。日本ユニセフといい「スラムドッグミリオネアをみてはじめてインドの貧困状態を知った」アグネス(笑)といい。性犯罪もろくに減らせない国からのこのこやってきてどのツラ下げて日本批判とかしてんの?とにかくさ、寄付金ピンハネで建てた巨大なビル売っぱらってその金で貧困地域に貢献してみるとこからはじめなよクソッたれの偽善者ども。マザーテレサはでかいビルなんざ建てなかったぞ。障害者というフィルターを通してしか人を判断しない差別的介護人の件がらみでもういっこ言うと、神様を極度に怖れすぎたり崇めすぎたりするのもそれと同じ心理に思う。これで神様にナチュラルに失礼をはたらいて即死んだ人のエピソードがあるんだけど、それってなにも神様でなくとも人間がされてもふつうに嫌なことなのに、人外の前となるとなぜかそれが失礼にあたるかどうかをまったく気づかわないふうになるんですよね。心をもっている同士であれば相手は常に自分と対等であるはずなのに「神だから」「障害者だから」という思い込みを勝手に持ってしまうとたちまち対等の関係が築けなくなってしまうってゆうね…。心をもつ相手と接する以上はそれがなんと呼ばれているモノであろうと自分自身とさして変わらないんですよ。最強のふたりで富豪が怒るのと、霊験修法曼荼羅で失礼なことされて神様が怒るのとはほぼ同じことだと思う。ごくあたりまえのことで怒ってるだけなのに、おっかなびっくりでいつまでたってもまともに向き合おうとしないからよけいに事態が悪化してくっつー。どんな相手でも心をないがしろにしてたらいかんよ。特定の呼称や環境によって勝手な思い込みばかり増やしちゃった現況では、どんな相手であろうと心に向き合って「対等」に付き合うことの難しさが増してるよね。最強のふたりにもどしますけど、ドリスが障害者介護に関してなにもしらないズブの素人だからこそ、プロ介護人が介護する対象に関して当たり前のように「情」を切り捨てすぎて接している異様さがきわだってみえたのだろうとも思う。健常者に対してやったら白眼視されて当たり前レベルの無神経なふるまいなのに、障害者というだけで「こういう介護をしてさえいればいいのだ」といわんばかりに型にはまりきったマニュアル通りの接し方ばかりしてくるっつーね。あの富豪さんの障害レベル(首から下が全麻痺なのでうんこも手でかき出す)だと介護業務が超のつく大変さだから介護人は相手の感情まで配慮しきれないのかもしらんけど、でも肉塊じゃねえんだからさ。健康だの善行だのを妄信するあまりに相手の心を踏みにじるのはよくないよ。介護業務初心者のドリスはしぶしぶ仕事をしつつも、業務に慣れてくのと共にフィリップがどんな奴なのかもだんだんわかってきて、真夜中の発作もそれは身体障害由来というよりもむしろ精神的な理由(深い孤独による絶望)から派生してることに勘づいて、従来のプロ介護人ならやらないような型破りな方法(というか友達としてごくふつうの思いやりから派生した行動)でフィリップとダチになってくという。まず心を尊重しなければ体はよくならないよ、ていう至極あたりまえのことを実行してるだけなんだが、それまでフィリップをあまりにも重度障害者扱いしすぎてきたせいでそんなこともわからなくなっちまったんだろうな。ドリスが介護業務をこなしつつも、フィリップに対して上からでも下からでもなく、常に対等に接してくるもんで、ドリスのことがあまりにも友達としてたいせつになりすぎたフィリップはドリスを介護業から解雇するんですね。ふつうに考えたらたいせつな友達ほど自分の尻穴からうんこかき出させたり全身もませたりなんてさせたくないもんな。たいせつだと思えば思うほどシモの世話をさせ続けでもしたらどんな感情がわくかわかったもんじゃねえよ。なのでフィリップはドリスと対等の「友達」関係でいるために、ちゃんと別れをきりだしたんだね。富豪であるフィリップの抱える真の「問題」は実は身体障害ではなく、周囲がフィリップの心を直視してこなかったこと、それにフィリップ自身も自分の気持ちから逃げ続けていたことだった、というオチは爽快でよい落とし前のつけ方だと思った。身体障害に目が向きがちだけど、そもそもの心をないがしろにしたら元も子もない、というおはなし。マジにあった話らしいけど、構造的にはおとぎばなしによくある金持ちと貧乏人の邂逅モノ(立場の違う者同士の相互理解)で、なんというか入り組んだ複雑な設定をハッキリとは描かないぼんやり傾向で済ます映画が多いフレンチ映画中ではかなり骨太&単純でよくできた作品だと思う。「友達になる」ってどういうことだろう?と考えるには最適の映画にも思うし。相手のどこに踏み込んでよくて、どこはそっとしておくべきか、友達でいるための最適な距離感とふみこみ具合が描かれてる。程度によるが相手の心に土足で踏み込むことも時にはたいせつ(※上記画像の日高先生が爆笑してる画像参照の事)つーか。相手の心をないがしろにしない、という基本点を踏襲してさえいれば大方なにやってもだいじょうぶな気もする。フィリップとドリスが映画中でお互いに全然ちがう音楽の好みを押しつけ合いながらぜんぜん受け入れないけどまあいいか、みたいなとこが面白かったな。あすこはなんか夫人おもいだしたよ。このみがさっぱり理解できないけどへんなのー(笑)と思う。あそうそう、あとオープニングの入り方がすっげえ巧かったよ。最強のふたりのOPは今年の映画中ではおそらくいちばん爽快な出来。
上記画像はこれこれのモノ。そういえば霊験修法曼荼羅で描かれてる抱き合った象の神様は最強のふたりのフィリップとドリスの心のつながりを表してるようにもみえましたよ。
 
撲殺したばかりの男が自分の息子だと気づいて青ざめてる中の頭のおかしい王様の絵は知ってたけど、それ描いたのがレーピンという画家さんだっつーのをレーピン展みにきてはじめて知った。レーピンはお偉い方々の肖像画もたくさん描いてるんだけど、名もなき市井の労働者なんかもかなり描いていて、どちらにしても「ドラマの中の1場面」的なわかりやすい劇的さやキャラ立ちを切り取っているところがちょっとアンドリューワイエスに似てるかなーと思った。画風がリアルタッチの重厚な油絵なのでそうは思えないかもしらんけど、もっと軽い画材にするとたちまち挿絵ちっくになるんじゃねーかな。画面内に描かれたヒトが特定の感情にふけっていると思しき場面が多いので、感情の発露をとらえるのが好きだったのかなーと思った。演劇ではないけれど、日常生活の中にひそむ劇的な何かを感じさすとゆうか。展示作の中ではウクライナの風俗を色濃く描いてる「ヴォルガの船曳き」「夕べの宴」「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」が面白かった。船曳きって職業があったことにびっくりした。淡いパステル調の風景の中で、色濃く日焼けしたヨレヨレの労働者たちが体に巻きつけた平たい布ヒモ(?)で大きな船ひっぱってるの。あれでどんだけ賃金もらってたんだろうか。服やぶれっぱなしだからさしてもらえてはなかっただろうな…。夕べの宴は描かれてるヒトたちがすごく表情豊かで楽しげな雰囲気が伝わってくる。暗い色調なのにぜんぜん暗くは感じないんだよな。むしろ濃密な空気感がよく伝わってくるし。お偉い方々の肖像画はなんかやたらカコイイの多いけど、あれは描かれてる本人が元々カッコイイからしぜんとキマッてるってだけですよね…?美化してあーなってるんじゃないよな?レーピンには肖像画の注文が殺到してたらしいけど、単純にリアルな美麗筆致がウケてたのであってべつに美化するからとかじゃないですよね…(ムソルグスキーの肖像とかアル中の寝起きまんまだしな)?しかしあのお偉い方々を描いた肖像画群にしても、画面色がほとんど黒中心なのになぜか暗くは感じないんですよね。なんか華があるというか。リアルタッチの画風で光があたってるところを目立たせて描いてるからなのかな。暗い色と明るい色の対比をすごく意識してやってたんだろうな。目立たせるような配置を常に気づかう的に。なにしろ今回はトレチャコフ美術館所蔵作品のみということで本描きの完成絵があんましないつーのがかなり残念だった。完成絵はほとんどロシアの国立美術館に所蔵されてるらしい。つーわけで今展はレーピンの有名な絵の習作が中心ですよ。有名な絵の習作のとなりにパネルで完成絵がちいさく出てたけど、その完成度がものすげえのな。今展で展示されてる荒い塗りの習作とは段違いにキレーなリアルタッチの作品でさ。うわあ…完成絵のほうみたかったな……と思わずにいれん展だった。
アラブエクスプレスは…うーん…。テレビとかインターネッツなんかで断片的に知らされる中東像以外のナニコレェー?!的なのがあんましないとゆうか…。全体的にむき身のアラブらしさよりも「アメリカのやりかたを倣った」ふうなニオイがとれない感。現代美術て自分の国の土着を掘り起こしておちょくる的なとこがありますけど、紛争で傷んだ石の家と砂漠と布に覆われた体と…みたいのってべつに提示されなくてもニュースなんかでみてるし…。もっと中東ではあたりまえすぎて恥ずかしいくらいの土俗感覚をバンバン出して見せつけてほしい。つーてもアマール・ケナーウィさんの道路を這い回る映像作品中で「人を動物のように歩かせることがアートなのか!?自国のイメージを悪くしてるんじゃないのか?」「知識人でも何でもない貧しい労働者を家畜のように徘徊させてるんだぞ!」「君はエジプト人としてのプライドがないのかっ!?」「俺達に恥をかかせやがって!!」などと現代美術への差別心をむきだしにする恥ずかしいアラブ男たちの有様は面白かったです(ピカッを見て怒り狂ってた人たちの言いぶんとすごく似てるねー)。あの四つん這いのまま店の中から次々と進み出す中のとこをおさめた「羊たちの沈黙」て映像作品は、理解できないモノへの恐怖心がまんま映し出されてていいですね。つーかさーおちょくられていちいち怒り狂ってたらいつのまにか都合良く操られてたりしちゃいますよ。1匹暴走したらぜんぶ暴走しだす家畜じゃねえんだから。風刺もろくにできないしされない国ってのはちょっと寂しいよ。その怒りを暴力以外で表現する癖を身につけるふうにしてくほうが国にとっても市民にとっても吉に思うよ。アラブの土俗感覚がらみでは「多くの人が名声を求めるアラブ世界では写真スタジオが急速に普及してる」とのことで、そこらへんに忠実につくられたアトファール・アハダースさんの合成写真作品「私をここに連れて行って:想い出を作りたいから」がちょっとおもしろかった。日本の観光地でも昔からよくある写真撮る用の絵の描かれた立て板にあいた穴から顔だけ出すやつじみたののアラブ版つーか。世界のいろんな観光地の合成でアラブの方々が写ってるアレなんですけど、なんかさー…アラブのヒト、顔立ちが濃ゆいので背景がピエール&ジルみたいだとインド人とまるで見分けがつかない。あーでもオサーマ・エッスィードさんの市井のはたらくヒトをセットの前で撮影した写真はレーピン絵ばりにキャラ立ちしててどれもイイ味だしてたなー。社会派作品ではムハンマド・カーゼムさんのドバイの経済成長を支える建設現場ではたらく移民のヒトを撮ったのとか、リーム・アル・ガイスさんの土木工事中のままでいつまでも放置されてる的な「ドバイ:その地には何が残されているのか?」とか、あとマハ・ムスタファさんのでっかい白い半円のお皿状の容れ物の表面に張られたゴム膜の中央から、真っ黒い水が勢いよく吹き出しつづけてるやつは単純にきれいだったな。器も壁も床も真っ白なんで、吹き出てる黒い水があたりに飛び散って薄墨効果になってて。まあ石油ってことなんだろうけど、石油がでるせいで狙われてる件で作品づくりするヒトはいないのかしら。社会派作品ていうとほぼ全部がそういえないこともないんだけども、やっぱりハラーイル・サルキシアンさんの公開処刑が行われる広場の写真(シリアのアレッポ、ラタキア、ダマスカス)がいちばんアレかな。単に広場にある建物を撮っただけだけど、処刑されてる中のはまあさすがに撮れないんでしょうからしょうがないか。その次にマハ・マームーンてヒトのエジプト映画をつなぎあわせたやつがすこし面白かったかな。合成むきだしの白黒映画だった。ぜんたい映像と写真がすごく多くて、巨大な意味不明のオブジェ的なのはほんのちょっとしかなかった。しかも写真とかがなぜかベニヤ板で立たされてたりして、あれわざとなんだろうけど、なんか…あんましお金かけられないのかなー…と思わずにいれんかった。あと今展はなぜかお客さんにちゅーごくのヒトがやたらいたなあ。こんな硬派な展になにかの観光ついでで来たのかな。もりの中の別のとこでやってるエジプト展がものすごい盛況だったけど。あっちは全然興味ない。アラブはお金持ちがいるけど現代美術に注ぎ込もうって向きがあまりいないのかな。そういう後援者が増えてアラブ土俗をむきだしにしてつくられた意味不明な巨大オブジェがたくさんつくられるように早くなればいいのに。そういえばアラブエクスプレスがなんかアメリカナイズドされてた件を夫人にこぼしたら「大昔のアラブには個人の芸術家みたいなのはあまりいなかったんじゃないかしら(=こねくるだけの素材があまりないのでは)」とかゆってた。宗教美術はありましたけどね。
『影武者は国連でワディヤの民主化を宣言しようとしていた。それを裏で操るのは、エクソン、モービル、BP、ペトロ・チャイナという石油メジャー。民主化されればワディヤの石油利権が手に入る。世界の巨大企業のベストテンにランクされる彼らがアメリカや中国の政治を動かし、湾岸戦争イラク戦争を引き起こした。彼らに比べたらアラジーンなんてちっぽけな小悪党だ。』(武蔵野館に掲示されてた「町山智浩の映画でわかるアメリカがわかる」より抜粋)
ディクテーターは独裁者風刺劇ですけど、あんなドリフよりもベッタベタにバカをまるだしてる独裁者キャラみて怒る独裁者がいたらその人はあのアラジーンさんと同レベルでしかないってことですよ?まあ独裁者とひとくちにゆってもいろいろいますけど。石油さえ豊富に出ればチャベズ大統領みたいにアメリカに従わずとも済むんだよね。そうするとすぐアメリカが嫌がらせしてきたりするんだろうけども。肝心の映画内容はドリフよりももっとお子様なギャグが多すぎて大笑いできないけど、解説よんでいろいろ真摯なんだなーと思いました。周囲全部がガチのリアクションだとサーシャの悪意タップシな異物感に震えるんですけど、脚本どおりだと予定調和感が強くて彼の異物感が寒いだけっつーか宙に浮いちゃうというか。同じ独裁者風刺なら志村けんのバカ殿のがぜんぜん笑えるし、サーシャバロンコーエンはやっぱブルーノみたいなアポなし体当たりのやつのが面白いなーと思いました。ああみえて真面目に風刺しすぎてるから笑いの要素が薄いんでしょうね。あーでも予定調和すぎるアメリカ映画揶揄的な中で典型的独裁者が大活躍ーみたいな構図はまあいいか。
凍える牙はなんか基本的に犬映画でおんなは男社会からつまはじきにされまーす完な方向でした。回想シーンに入る前と後をぼんやり効果であらわすのはちょっとかっこ悪いです。ガンホの乱暴刑事っぷりをみにいったのでまあいい。韓国映画で描かれる警察関係者の暴力的な雰囲気はいつみてもシビレるぜ。原作がなんか乃南さんの小説なんですってね。日本の小説がわりと翻訳されてるのね。