被害者は儲けになる

プラド美術館所蔵ゴヤ 光と影(4日。国立西洋美術館)→デビルズダブル(11日。だっけ?スカラ座)→ダークフェアリー(29日。シネマサンシャイン)→ストリートライフ(写真美術館)→ゾンビ大陸アフリカン(シアターN)→RUBBER ラバー(ヒューマントラストシネマ渋谷)→セルビアンフィルム(えぬ)とみまして、セルビアンフィルムは元アダルトビデオ男優がスナッフフィルム撮影の深みにはまらされてく話ですが、氏賀Y太の凄惨なエロ漫画を娯楽とみなせない方はみてはいけない。アンチクライストをみてうなされた方がセルビアンフィルムみたらたぶん鑑賞したこと自体を生涯に渡って後悔するレベル。これまでシアターNではレイトショー枠で残虐な作品を上映してきてくれたけど、ここ2〜3年に上映されたもんはほとんどが「(理由のある)人体損壊」が主だったので慣れてる向きがみればそれほど心をかき乱されることはないんだが、今回上映のセルビアンフィルムに関しては単純な損壊じゃなく倫理をおもいっきし揺さぶってくる(参照)のでショックがハンパないです。セルビアンフィルムの監督が紳士だとするとイーライロスは中学三年生くらいです。これでセルビアンフィルムがおっかなびっくりのこけおどし三流映画ならここまで倫理を揺さぶることもないんですけど、たちが悪いことにこの作品はここ10年間の自分映画ランキングの5位近辺に食い込むほどにたいへん優れた出来で「スナッフフィルム」と聞いて思いつくことを大体つめこんである。セルビアンフィルムは映画はしごのラストだったんでかなり疲れてて寝そうだったにも関わらず、しょっぱなから最後まで徹頭徹尾倫理破りの不穏感を眼前に突き付けられる展開でねむくなるひまなんぞビタ1文なかった。クライマックスも(スナッフ話に親しんだ事のある向きには想像がつくアレとはいえ)十分ショックなんだが、中盤でスナッフに参加させられてると気づいて詰め寄ってきた主人公を説得するために企画会社(だよな)の男がみせてくるビデオね…。あれはね…漫画ではわりとみてたんで耐性はあるつもりだったんだが…。実写映画でみせられるとさすがにちょっと…。きついわ………。所詮「インクの線」は実際の映像には逆撫で度ではかなわないんだね…。局部にモザイクかけてありましたけど、そんな小細工どうでもよくなるほどだよ。本日題は鬼畜の所業を映像におさめて大喜びする企画会社の男が主人公へ言い放ったセリフですが、まごうことなくそのとうりなんだわ。こと創作物では「被害者」がなによりの見世物なんですよね。それは主人公であれ脇であれ、度合いによって「被害」は物語のさまざまな緩急装置として機能する。繰り返されてきた事実。起承転結で被害者はたったひとりか?それとも数えきれないほど?鑑賞者は物語のあらゆる「被害者」を通じて怒り、笑い、涙する。心を揺さぶられたいがゆえに金を払って「被害者」をみにいく。これこそが創作物の正体だ。それは「らしく」演じさせて作り上げる事が社会で生きるうえでの大前提だが、もはや「社会」に沿う必要すらないほどの金と権力をもつ輩がその外側に存在するモノを求めたら。「演技」では満足できなくなった輩、その輩の要求を嬉々として遂行する輩。遠い昔から誰に言われるでもなく連綿と存在しつづけ、これからもどこかで生を受けるであろう者。セルビアンフィルムは冒頭でいきなり小さい男の子がアダルトビデオをぼんやり眺めてるところからはじまって、あ…この子の親はろくでなしなんだな…と思いきやさにあらず。母親が慌てて消させるもののそのアダルトビデオは父親の昔の出演作で、ねえパパーあのおんなのひととパパとなにをしてたのー?みたいに無邪気に質問してくるぼうや。ぼくおマタがぐるぐるするようなかんじがしたよー。そうね。それはだれでもそうなるのよ。などと適当にお茶をにごす母親。父親が元アダルトビデオ男優という経歴をもつものの、ほのぼの性教育ふうやりすごしができる程度にまっとうな価値観をもつ両親のもと、健やかにそだつぼうやと共に穏やかに流れる家庭生活。あるときぼうやの父親である主人公のもとへ棹師時代の仕事仲間だったAV女優が訪れ、巨額の報酬がもたらされる仕事の打診をしてくる。企画者らしきヴクミルという男は大仰な芸術論ばかりぶって仕事内容の詳細を教えようとしない。棹師以来大きな儲けのなかった主人公は怪しみながらも家族のためにと仕事の契約をしてしまう…。その後は徐々に後戻りできない箇所までズブズブなってく展開で、例によって場所を知られないように目隠しをされて目的地まで運ばれて、着いた屋内には武装兵のような出で立ちの大柄な男がハンディカムを主人公につねに向けており、いわれるまま歩くと年端もいかぬ少女がいたり、その少女を突然きたおばさんが罵声を浴びせてどこかへひきずっていったりとわけのわからん進行が繰り広げられて、事態が把握できないまま通された個室で保母さんらしきおばさんにちんこをしゃぶられだして気づくと目前にさきほどの少女がアイスキャンデーをなめる映像が映し出されて…みたいなかんじで初日が終わる。このあたりからもう企画者がなにをさせようとしてんのか予想してしまいますが、そこはストレートにいかんのです(アリスの服着てたりして間接的に関わってくる)。2日目はアバズレ的な女性をリアル暴力にさらす系の撮影がされたり。主人公の特性というか、なんか「女性を手酷く扱いながらも結果的にそれで満足させてしまえるうえ病みつきにさせてしまう」ことのできる「才能」がずば抜けてるらしくて、そのAV男優としての天賦の体質を買われて今回のスナッフ企画に抜擢されたらしいんですけど、わりにヒドいシチュエーションでも即勃起するもんで大抵のことはできてしまうんですね。これは主人公が鬼畜ってわけではなくてそういう体の構造として生まれついていて、意志とは関係なくヤれてしまう。おんなの体でいうとミミズ千匹が意志と関係ないのと同じだと思う。その日以降は暴力スナッフ系ということでまあ行き着くところまでやらされてしまうんですけど、主人公の性質は鬼畜ではないのでどうにか手を切ろうとするんですが、凶暴化するふうなヤクを打たれたうえ勝手な焚き付けを吹き込まれてついにヤッてしまう。強制的にヤク打たれて朦朧とする意識のときにいきなり会わされた女性について「こいつは子供を虐待する悪鬼だ」みたいないかにも悪人的な情報ばかり詰め込まれる手法。これが何回か繰り返されて、あるとき主人公が意識を取り戻すといるはずの仕事相手も家族も消え去っていて…みたいな展開に。主人公の体質的な「才能」に関してちょっと興味深かったのが、はっきりとは描かれないんですけど、主人公が女性を手荒く扱う際に「相手をなんらか落ち度のある存在としてみなす」という前提があるのかなと思った。魔女狩りのヒステリーじゃないけど、相手をブチのめす快楽というのかな。それが使いようによってはセックスでの潤滑剤としてうまいこと機能することを知り得てるってあたりが才能ってことなのかなあ(あと手荒な扱いをしつつも相手のツボどころも把握できるってのも絶対あると思う。乱暴に挿れるだけでは決しておんなはよがりませんので)と思ったり。その獣性を悪用制御してしまうのがヴクミルで、つまるところスナッフというのは体ではなく心を売られてしまうということなのだなと思った。あとさっき書いた中盤に主人公がみせられるビデオで、鬼畜の行いにふける男がでてくるんだが、彼は小児性癖なんてちいさいくくりではなくてもはやなにとでもセックスができるレベルでしょうね(マジに小児性癖だと子供以外のもんとの性交はできればしたくないはずなので。あの拷問人はどんな状況下だろうとなにとでも躊躇なくヤッてる)。あのテの人はものの本によると幼児期にひどい目(暴力だけでなく育児放棄でも十分そうなる)にあって脳の情をつかさどる部分が萎縮して育たないまま肉体だけが成長してることが多いんだよね。ああいうのはもう性交じゃなくて死肉を貪りつづけてる地縛霊みたいなかんじな。なにに挿れても真に満足はできないだろう。なにをやっても「ショック」は感じないんだろうし。ものごころつかない時分に受けたのと同じ仕打ちを被害者たちに繰り返しつづける(加害者側になる)ことで克服したふうな気分を味わって悦に入ってるのかもしれない。意識せずにそれを繰り返さずにいられなくなってるって可能性も。単なる妄想だけど。おそろしいことをやるキャラの理由を考えるのは不粋なんだけどね。なんかちょっと今てがけてるもんのついでで背景考えずにいられなかったり。ぜんたい観客の倫理の皮を1枚ずつ剥いでいく進行の間断なさがうまいねー。ダレがぜんぜんないよ。ものすごい手際よくトントン拍子で深淵へ誘いこんでく。監督さんは主人公役も兼ねてるスルディアン・スパソイエビッチという方だそうで、ぜひ氏賀Y太先生と「創作物で観客の心を揺さぶる際に気をつけていること」について対談してもらいたい。鑑賞者に対して誠実ってのは彼らのことだと思うよ。みてるヒトの心を全力でゆさぶろうとしてんだもん。そこらの片手間監督とはわけがちがうよ。なにしろセルビアンフィルムは全シーンどれをとってもアメリカの映画監督にはできないでしょうね。たとえスラッシャーものの監督ですらもビビッちゃってできないであろうネタのオンパレード。セルビアンフィルムみててアメリカや日本の映画がいかにつまらない縛りでがんじがらめかがひしひしと身にしみたよ。でもポールバーホーベンにみせたらたぶんイカすコメントをくれるんじゃないかと思う。したら惹句にして売ればいいよ。みんなさー創作物では「やっちゃいけないこと」なんてないんだよ?わかってる?
そういえば観賞後にスキンヘッドの白人さんがえぬの受付嬢に「この映画のDVD販売してないんですか?この映画のDVD販売してないんですか?」て2回聞いてて臨場感がすごかった。セルビアにはすっげえのがいるなあ。そういえばセルビアンフィルムにでてくる企画者のヴクミル来歴で「児童心理学研究で赴いた日本で消息を断った」みたいなくだりがあって、そこはむしろ東南アジアとかインドにしたほうがリアルですよ。つーかなんかオマージュなのか?(笑)
ダークフェアリーは古い屋敷に人を食う小さい魔物が巣食ってて、そこに越した家族が翻弄される話なんですけど、なんか作り手が「撮りたい絵ヅラ」を優先するあまりに主役キャラである少女の言動がいまいち一貫してないせいで恐怖カタルシスの焦点があやふやなかんじで恐怖感が全然抱けないんですよね。恐ろしい顔の小さい魔物が主人公の子の布団のなかに入ってきたり風呂桶の中でむさぼり食われそうになるような体験して怯えきってるはずなのに、親が主催のパーティでとたんに無邪気に屋敷んなか駆け回ってるしさ。そうゆう画ヅラをどうしても入れたいんなら前半にもってきたほうが展開上自然なんじゃねーのかな。幼い子があんな怖い体験を何回もしたら怖くてあの屋敷に入ることすらイヤになる気がすんだけど。あのコが屋敷に入るのを拒否するような場面が最後のほうでようやく出てくるくらいでねえ。キャラ造型も展開も不自然さが目立っちゃってなんか…。パンフの評みるとデルトロがいろんなもんに目配せしてる的なつくりらしいけど、オマージュって見世物よりも優先していいものなんだろうか…。個人的に「やりたいこと」て自分以外の他者向けの見世物としては成り立たない場合が多い気がする。エンジェルウォーズしかり。あとあの小さな魔物はトゥースフェアリー前提でつくられたっぽいけど、抜けた歯をコインと交換してくれるほのぼの妖精伝説をあんなミもフタもない屍鬼として描いちゃっていいんですかね。妖精好きにとっても納得いかなすぎる描写な気が。あと継母を生贄にしてメデタシってのがなんか。異質な新参者をさっさとブチ殺して厄介ばらいしちまいたい気持ちもまあわかりますけど、同じ立場のお客さんとか複雑な気持ちになるでしょうな。なんかこう…ファンタジー部分にしろ人生の不条理感にしろ首をかしげてしまうところがありすぎて物語に浸れないんすよね。いろいろカキましたけど、屋敷の主であった絵師ブラックウッドの秘蔵絵の「一般公開しない(印刷物にしないって意味だと思う)という条件付きで遺族が図書館に寄付した」て設定はいろいろ応用できそうだなーと思った。それならどの画家にでも自由自在に後付けできるよね。パンフ表紙にもなってる秘蔵絵に関してはこの人の絵柄をまねたふうにつくってありましたな。
ゾンビ大陸アフリカンは深夜サバンナのど真ん中でエンコした車直してて、パッてライトつけたらいつのまにか大勢のアフリカンたちが車のまわりを取り囲んでじーっとみてた感覚にものすごく忠実なゾンビ映画。「うさぎとかめ」に於ける兎の戦慄つーか。いつのまにこんなッ?!みたいなゾンビ映画。ゾンビ化したアフリカンたちものすごいゆっくり移動なんで、ナメてかかってるといつのまにか隣まできててガブゥうわああああみたいになるところがすごく自然でうまい。油断してるとゆっくりさんにうまくやられるゾンビ映画。あと死体袋に入れられたままゆっくり歩いてくるゾンビとかいてなんか斬新だった。ラストとかふつうによい展開だった。ウェルメイドないつのまにかゾンビ映画
RUBBERは自我に目覚めた古タイヤが念力で人間を破裂させる映画。最初に目覚めたタイヤがころがりかたやモノのつぶしかたを地道に覚えてくとこが人外作品好き的に秀逸だった。人外独自の生理感覚てすきなんだよな。あのノリのまま進んだらよかったのになー。あと映画を問う映画的な設定はなんかむつかしいことを考えさそうとして実はなにも考えてないと思った。ここ最近フレンチ人らしきヒトがアメリカらしいアメリカ映画をつくる傾向が流行ってるんだろうか。ピラニアサンディーといいすばらしい出来が多い。

  
  
展についてはそのうちカキます。