ビニール袋にいれた色水みて図工の時間思い出した

「具体」日本の前衛 18年の軌跡(26日。国立新美術館)→与えられた形象(国立新美術館 企画展示室2E)→やがて哀しき復讐者(武蔵野館)→ムカデ人間2→トータルリコール(2日。新ピカ)→ダークナイトライジング→プロメテウス→アベンジャーズとみまして、具体はNHKが東京でテレビの放送をはじめて街頭テレビに人だかりができたりプロレス中継が人気を博しはじめたり、ソ連が水爆実験したり自衛隊ができたりしたころに、吉原治良てヒトが率いて結成された美術グループに所属してたヒトたちがつくった作品を展示してあるアレ。なんかリーダーの吉原さんてヒトが藤田嗣治から「まねっこはなんであろうとダメ」的な指導をされたことから、結成した具体所属の美術家たちに「人のまねをするな」「これまでになかったものを作れ」ていう鉄の掟を課して作品をつくらしてたらしいんですけど、マジにみたことないもんて本来的につくれないんすよね(認識不能だから。記憶のなかにあるモノしか形にできない。あと素材なり形状なりに作り手と鑑賞者の双方にとっての共通言語的なモノがないとなにひとつ理解してもらえないし)。つーことで展示されてる作品の大半が「素材のひとつひとつはどこにでもあるけど美術作品としてはいちども出されたことがない」的な傾向だったような。たとえば53のブリキ板に塗料とニスをぶちまけたふうな山崎つる子さんの平面作品は、塗装業の作業途中で何回もあらわれては捨てられる廃材のような風情で、つまり日常ではあたりまえのように「失敗作」や「ゴミ」とされて見向きもされないモノは「作品として題つけられて美術館に展示される」という箔がつかないかぎりはそのモノの孕む美しさや面白さに気づけない=見たことのないモノは役に立たないモノの中にしかない、ということなのかなーと思った。なんか発足当時の巷の最新トレンドが「テレビ・冷蔵庫・洗濯機をぜんぶ持ってる」だったそうで、最新機器に取り囲まれてラクチン生活おくりたい的な憧れを多くが抱いてたときにゴミから美を見出すとかなんのことやらわからなかっただろうなぁ。「新しい」が至上とされたのなら古くさい廃棄物からはなるべく目そらしてたかったのでは。四角い画面内でほぼ等間隔に並べて描かれたいろんな色の丸と丸の間に、丸と先っぽがくっついた様々な色の線が絡まりあうようにひしめいている田中敦子さんの絵(81・82・83。ラッカーとかエナメル樹脂で描かれてるらしい)はなんらかの機器が電気コードでつながってるふうを思わせて「だんだん家電が各家庭に浸透してきてあまり見向きされなくなってきたのかな」的なアレにもみえますけど。田中さんはどういう理念で作品つくってたのかしらんけど、なんかモノとモノが線でつながってエネルギーがおくられてくる的なもんが好きだったんだろうか。37のリアルに電気が通ってる電気服とかレディガガに着てほしい。手をちかづけただけでわりと熱いからムリだと思うけど。電気服を構成する細長い電球、塗ったくった塗料がいい具合にひび割れててきれいすね。田中さん作品で「物と物が線でつながってエネルギーがいったりきたりする」をまんま具現化した29の非常ベルのやつ、大人は音のデカさにビビってみじかくしかボタン押さないけど、チビッコが長いこと押し続けててうるさくてよかった。非常ベルの検査はうちの会社でもたまにきてやってるけど、けっこうびっくりする。田中さん作品では27のカレンダーてのもふつうにきれいです。1960年代になると大量生産とかデジタル的なモノを思わす作品がでてきて、特に高崎元尚さんの装置(131・132)がツボ。これ真っ黒の背景にちいさい四角い麻布を等間隔にびっしり貼っただけのシンプルな作品なんですけど、なんかすごくきれいだったな。なんでだろうか。貼られた四角い麻布はきれいに四角く貼られてるわけじゃなくて、角が微妙に剥がれてるんですよね。それぞれが微妙にちがってるふうに。あの剥がれぐあいとそこからできてる影ぐあいが絶妙つーか。境界が溶け合って判然としていなかった有機物が、なんらかのきっかけで整頓されて無機物になりかかってゆくふうな。よくしらないけど生き物の細胞とか、有機物なのに機械的な整った配列みたいので構成されてるんでしたっけ。なんかそんなふうなのがよぎった。大量生産・デジタルがらみでは名坂千吉郎さんの136・137はドット美術のはしりくさいし、146の森内敬子さんのクッションならべただけのやつもシンプルにはしっこから押したくなった。ほんのすこしのちからでやわらかい整頓を崩壊さしたい欲求がでてくる。有機物くさいのでは松谷武判さんの93・94あたりの腫れ物のてっぺんから亀裂ができてるふうなアクリル製のフジツボちっくなやつがブキミでいいっすね。目のようなワレメのような。無機的な配列もほんのちょっとずらせば生理的にウッとくるブキミ物体になってしまう。大量生産じゃないけど聴濤嚢治さんの121はちょっと和光のショーウィンドウのディスプレイくさいし、薄暗い別室に置いてあるヨシダミノルさんの近未来的な造形のししおどしの大仰なムダっぷりがよかった。あれしばらくすると動き出すんでちょっと待ってたほうが吉。1960年頃には整頓した無機的な模様羅列だったモノも、1970年に近づいてくるとなんかマンダラくさいアレになってきてた(特に117の小野田䔈作品)。あとは抽象画ど真ん中だなーと思ったのが元永定正さんの43「とんでいる」がちょっとこれのタッチに似て可愛いですし、元永さんのでは145がなにかがモリっとでてるふうで好感触。坪内晃幸さんの134はこまかい模様がチマチマ描きこまれてパウルクレー風。ちいさく書き込んだ模様がちりばめられてるとなぜ「かわいい」と感じがちなんですかね。整えると包装紙にしかならんのに。あそうそう、抽象ど真ん中といえば具体を率いてた吉原さんの作品もあるんですけど、63「硝子壜の静物」て油絵、当時18歳とはいえ普通にへたくそじゃね?あれってわざとなの?でも64「手とカード」は普通に巧いしなー。その後の65「縄をまとう男」がまた普通にへたくそ的な筆致の油絵なんですけど、構図とかがへんに豪快でおもしろいので、まあわざとなんだろうな。絵のおもしろさは巧さではないとゆうのがわかりきってたのかな。その後に賞とったらしい66「図説」がもう普通に意味不明の模様しかないバリバリの抽象画だし。たぶん美術は各人が自由に楽しむことだと言いたかったんだろうけど、あのテの抽象画みせられても当時のお客さんはわけわからんかっただろうな。今でもわけわからんけどさ。吉原さんのではいちばん最後にあった、書道のトメとかハネの部分だけを取り出して色つけたやつもシンプルでよかった。ぜんたい発起人でリーダーだった吉原さんが芦屋のぼっちゃんだったからこそよけいに当時ゴミクズ視されてたもんを展示することに反抗悦楽を感じてたのかなーとも思いました。ところで嶋本昭三作品13「この上を歩いてください」作品に「歩かないでください」の注意書きはどうかと思った。レプリカでもいいからつくって体験さしてくださいよ。
『実在感を持った絵画、ただそこにあるだけで他になんの意味も持たない、しかも特異性を持った、そんな絵画空間を作り出したかった。そのためには、とにかく描くしかなかったのです。』(GIven Forms図録 p.70)
辰野 (中略)横浜にキャベツ畑とかよく撮りにいったじゃない。
 柴田 ああ、行ったねぇ。
 辰野 要するに、こう、連続しているものになぜか惹かれていたの。』(GIven Forms図録 p.21)
与えられた形象は具体ついででみてみた。柴田敏雄さんと辰野登恵子さんてヒトふたりの作品が交互に展示されてる展で、柴田さんはおもに公共のコンクリ建築の直線や四角い部分を写真におさめてるんですけど、ふと屋内でもみぢかなとこに目をやるとブキミなほど四角に取り囲まれてるのな。ちっさいモノから巨大なモノまで四角だらけですよ。布団だの棚だの(PCの中なんかよけいに)。人間てもしかして四角がないと生きていけないんだろうか。これだけ四角を必要不可欠としていながらまともに見てすらおらず、たまに見てもつまらないとしか思えないってどんだけ人間は四角に対してサディストなんだ。そうゆうわしも柴田さんによって撮りおさめられた巨大な公共四角群写真をまのあたりにしなければ気づけなかった。今展の題どうり、まさしく万人がイヤというほど特定の形を常日頃から「与えられている」というのに、与えられているとは思えずだれひとり目をむけないというね。柴田さんの写真に関しては混沌とした自然(有機物)にコンクリの四角や直線(無機物)がへばりついたり屹立してる面白さとゆうのかな。計算ノートのマス目が山の斜面に侵蝕してって、あまりにまとまりのない自然に納得がいかず、とりあえず覆いかぶさって納得してる感。でもそのうち朽ち果てはじめて自然に覆いかぶさられてしまうという。四角と自然の巨大で静かな攻防。直線vs.ゆがみ。意味と無意味のくりかえし。辰野さんは色鮮やかに意味不明の四角を描いてる方で、いびつな色ちがいの長方形がすこしずつズレながら縦向きに積み上げられてたり、倉庫の中に横長のコンテナが置かれてるふうなところとか、なんなのかはわからないけど兎に角きれいな色の四角をでっかく描いています。色合いとか塗り方からしてなんとなくフェルト生地で出来てるモノなのかなーみたいに思えるのが多い。まるっこくてもりっとした形の絵はもろにそう感じる描き方だし、やわらかい合成繊維でできたクッションを思わせる質感が多い。使う色にピンクが多いせいか、なんとなくこうお菓子とか、女子の生活空間にありそうなモノを思わせる。その意味不明の四角やまるっこいモノの背景もわりと色鮮やかで、うーん…なんとなく花畑を思わすふうなのもあるし、倉庫や物置のなかを思わすものもある。辰野さん絵を「あれはどこなんだろう」という視点でみるとちょっとおもしろい。花畑かなー…と思っても「じゃあ手前のズレた四角はなに」と思う。すべて辰野さんの心地よさの濃縮なんで意味はないか。ぜんぶ意味不明なのですきなようにみれて癒された。展示の後半に辰野さんの初期の作品とかあるんですけど、柴田さんと同じくマス目や罫線みたいのがでてきてなんかおもしろかった。このヒトもこうゆうことなのか、と思った。辰野さんと柴田さんふたりの作品をならべるって発想、なかなかイイですね。企画したヒトいいとこついてる。しかしなんつーか、意味不明の巨大な四角に情熱を注ぎ続けてずっと食っていけてるってのがものすげえ骨太な生き様でどうなってんだと思った。貫ける美術家すごいと思った。この与えられた形象展の図録がまたデカくて重くて(あれで2,500円はお買い得だと思う)もちかえるの大変だった。具体のも買ったからそれふたつ持って歩くのがわりと苦行だった。与えられた形象展は具体のあとメシくってからみたんですけど、その階にいくためにエレベーターのとこいったらおっさん3人がエレベーターの前にいて、なんかどれがエレベーターのボタンなのかわからないみたいで「コレか!」とか言いながら指でちからいっぱいネジ押してたんで、本物のボタンのほうをそっと押してあげた。
上記画像は辰野さん絵と柴田さん写真。
トータルリコールはケイトベッキンセール案件だった。主人公に真実を思い出させないように愛情タップシふうの奥さんをベッキンセールが演じてるんですけど、主人公がかるい気持ちで赴いた記憶風俗でその真実に肉迫する的な出来事が起きた直後からベッキンセールが主人公をブチ殺そうとしてくる話。ベッキンセールは体制側所属の凄腕の女兵士で、主人公はベッキンセールと同じ体制側に所属してた伝説とまでいわれたほどの凄腕のスパイだったもんで、ベッキンセールとしては主人公が憧れの存在かなんかだったんでしょうね。主人公に記憶がないとはいえそういうヒトとイチャイチャするのは悪い気はしなかったでしょうけど、その後に主人公が反体制側に寝返った際の記憶に肉迫しかかると、ベッキンセールはとたんに鬼のようになって主人公に襲いかかる。追跡されないようにするために主人公が手のひらに埋め込まれたケータイを取り出すのが痛そうだったな。つーかさ、バーホーベンのトータルリコールと話がずいぶん違うねえ。シュワ主人公のほうは火星で空気がどうこうって話だったけど、今作はなんか地球上の大陸の大部分が汚染されてて、かろうじて汚染のない区域(イギリス)で暮らしてる金持ちたちが、その区域と真裏にある区域(オーストラリア)を穴掘ってつなげて、オーストラリアで暮らしてるヒトたちを労働で酷使して優雅に暮らしてるっつー世界。反体制側はその区域をつなげた穴こそが搾取構造をつくってるのだとして破壊にかかったりしてて、主人公はかつてその反体制側に加担したんですが、工作中に体制側につかまって記憶を塗り替えられてしまってベッキンセールと暮らすはめに。ベッキンセール、最後の最後まで主人公を執念深く殺そうとしてきてこわい。可愛さあまって憎さ1000倍といったところですかね。しかし労働とか搾取とかが筋に入ってるSF映画未来社会のビジュアルってなんか灰色とか黒の色合いが中心ですな。カラフルだとバカっぽくなるかな。トータルリコールは労働力だけど、ダークナイトライジングとかアベンジャーズとかの大作アクションはエネルギー源が話の根幹に据えられてるのが多い。娯楽映画ですら避けられない永遠の課題なのか。
ダークナイトライジングは気高き黒騎士をただ一人の男に墜とす的な筋がメインで、前作からの続きモノとしては(ジョーカーが全然出てこないことを除けば)わりと正統派な筋に思いましたけど。前作でハービーデント殺しの汚名を自らかぶったバットマンと中の人であるブルースウェインが十数年(だっけ)公に姿を現していないものの、デントの残した法律によってならず者が次々つかまえられて街は一応平和なかんじなんですが、ウェイン邸に忍び込んだ女泥棒(アンハサウェイ)について調査したり、孤児たちが「仕事」を得ているらしい地下道でのみょうな動向を警察が調べてるうちにクチにゴツいマスクつけた大男があらわれて…みたいな話。この大男がベインつー今回の悪役なんですけど、自分の病弱さと生い立ちへの怒りが原動力のシンプル悪なのかなーと思いきや最後の最後にベインの背後にいる悪玉が明かされた瞬間ベインを見損なった。あそこまでやれる悪の根っこに性だの情だのがあるのかと思うと異常に安いキャラにしかみえないし。つーかあの穴を登りきって生還した人間をベインが殺そうとする自体がなんかベインの存在否定になるような気がすんだが。でもまあベインが仕掛ける「街」への破壊はなかなかの見ものですし、混沌状態の中での「ならず者vs.警察」みたいな対立構造を差し挟んであるところも映画としては面白いのでみといて損はないです。ノーランは2項対立が中心軸になってる話の娯楽映像化がうまいですね。プレステージがわりと好き。今作もキャラそれぞれに善悪の選択肢を課してて。
アベンジャーズはアメコミの超人キャラが4〜5人集結してロキのたくらみにたちむかう話。ロキは北欧の神話にでてくる神様のひとりですけど、映画中ではなんか別の惑星のヒトで、同じ北欧神話中の雷神ソーの血のつながってない弟的な存在なんですが、雷神として君臨するにーちゃんを羨んでいろいろ仕掛けてくるっつー。にーちゃんであるソーはちからも強いし金髪でガチムチのガハハ親父系の頑健なキャラなんですけど、このロキつーのがいかにもひ弱で始終いじけてるふうな日陰キャラで、その見た目どおりちからもさして強くないので正面からアニキにたちむかってもどうにもならんことがよくわかってるので、どっかの悪者を連れてきて地球もろともアニキであるソーをも支配下に置こうとするわけです。そのために海底でみつかった万能のエネルギー体で悪者の惑星と地球を亜空間でつないじゃって…みたいなことをしはじめたんで、サミュエルLジャクソンが各地にいる超人たちを呼び寄せてちからを合わせてロキと戦ってもらおうとするんですけど、超人だけあって各人個性がキツくて出会ったそばから拳でわからせてやる的な展開になったりすんですが、いざ目的がさだまってたちむかうとなるとイイかんじに結束してくという。あの超人キャラそれぞれがアメリカという国を端的に表してるふうに考えると一種のアメリカン愛国映画なのかなーとかぼんやり思った。個性キツすぎてプライベートではまったく気があわないけど(いつも主張しあって口ゲンカばっかしてるカンジ)、仕事をいっしょにするとなると抜群の能力を発揮するというかんじで。あつまる超人のひとりであるキャプテンアメリカはなんか設定上では現代風俗をよく知らなくて、一時代前で認識が止まってるふうな古風思考のキャラでしたけど、あの潔癖な真面目愛国兵士なかんじがちょっとナチスの親衛隊と紙一重なあぶねえ性質だなあと思った。どの国でも同じかなあそこらへんの直情潔癖兵士のあぶなさってのは。あとなんか…このテの最近つくられるアメリカン大作アクションで「敵」とされてる側(多くは異星人)がどうも機械人間が中心になってるっぽいけど、あれは単に血を出さずにブッ殺すのに都合がいいからですかね。それとも文明がある程度発達したところはどこも必ず機械兵士を使うことになるであろう=未来の地球の兵士たち(の姿)と戦っている=生身戦士礼賛、て意味になるのかしら。邪推しすぎか。ぜんたい各キャラの見せ場がバランスよく配分されてて、なにも考えずにみれる娯楽映画としては1800円払って損はない映画だと思う。
プロメテウスはなんかエイリアンが生まれた理由が描かれてた。前半はしご疲れで寝ちゃってちょっとよくわかんないんですけど、早い話が地球の人類を生み出した別の惑星の人がいて、どういうわけかほとんどが滅んじゃってたんですけど、調べてたらひとりだけ生きのこってるのがいて、人類生み出した理由聞きたさに起こしてみたら手がつけられないほど超凶暴でいったいどうしたらー?!みたいな話。この惑星に調べにきた宇宙船がプロメテウス号つーんですけど、乗組員のひとりに男のアンドロイドがいて、このアンドロイドが政府の密命受けてるかなんかでこっそり乗組員に一服盛ったらその乗組員が凶暴化しはじめたんでまあ他の乗組員によって焼死させられるんですけど、その燃やされた男が凶暴化する前に乗組員の女博士とセックスしてたもんでその女博士が男の子種で妊娠してしまってるうえ、たった数時間前のセックスにも関わらずもう子宮内で3カ月経った的なモノが既に育ってて、まあ白いタコのような暴れるモノなんですけど、これは貴重なサンプルー!!とばかりに異物を妊娠中の女博士をむりやり冷凍睡眠さして地球まで連れ帰らそうとアンドロイドが捕らえようとしてくるんですが、とっさにアンドロイドの魔手から逃げ出した女博士が無人の外科手術機器に自分から乗り込んで、自分で全部操作して腹切って白いタコのようなモノを無事摘出すんですけど、この外科手術の超特急っぷりがスゲエよ!!腹切って縫うまで全部で5分くらい。(胎内で暴れるなにかを腹の上から手でおさえながら)ギャアアアアアア→外科手術機に乗り込む→簡易麻酔打ちまくり→レーザーで腹切る→機器腕胎内挿入→機器腕持ち上がる→でてきた白いタコ暴れる→ギャアアアアア(と絶叫しながら)外科用ホッチキスで切った腹の傷バチバチ留めてく→うねるタコ足よけながら外科手術機から降りる→機器閉める→白いタコに冷凍浴びせる、みたいなのが超特急でおこなわれます。このシーンみるだけでも劇場にみにいくといいよ。なんかね、その5分の間ずっと女博士の絶叫と白いタコ暴れが常につづくかんじで凄いシーン。今年のすごいシーン決定。この白いタコはしばらく放置されるんですけど、件の人類つくりだした超凶暴な人が襲ってきたときに、放置されてよく育った白いタコをけしかけるふうな展開になります。ぜんたい「人類生み出した理由とか調べにこなけりゃこんなメに遭わずに済んだのにね」的なアレで。人類のヤブヘビがエイリアンを生み出したってことなのね。ところで惑星に済んでるクリトリス蛇みたいの、あれは単に乗組員が襲われたってだけで、ほかに絡んではないのかな。
ムカデ人間続編ね。1作目とちがって今作はなんか医学知識ゼロの変質者がさらったヒトたちをてきとうにいたぶる話でしたけど、ムカデシリーズに求めてるのそこじゃねえんだよな。最先端の医療技術や深い知識を持っていながら「ムカデ人間をつくる」というアサッテの方向へ全力でむかう壊れた情熱を持っていることがおもしろいのであって、続編の主人公は医学知識がない時点で「ムカデ人間をつくること」に対する情熱や真摯さが無いただの変質者なのでしらけた。その変質者の原動力が「家庭内の問題」とか「1作目に感化された」てのもなんか安かったし。1作目の博士は理由などない(まあシャム双子手術が動機くさいアレはありましたけど)ところがシビレるのであって。行為に理由のある変質者はいろいろ薄いよね。よくできたムカデ人間がつくられるところがみたいんですよ。いたぶるところをみにいったんじゃないんですよ。そこんとこお願いしますよ。1作目はムカデ人間化したヒトたちがどうにか逃げ出そうともがくサスペンス的なとこも配分よくつくられてたのになー。監督さんは全作がウケたのをいいことにいろいろ勘違いしてると思う。タランティーノタランティーノうるせえよ。