スーダンの歌謡曲、日本の歌謡曲になんとなく似てた

鋤田正義展 サウンド・アンド・ヴィジョン(16日。写真美術館)→籠の中の乙女(イメージフォーラム)→カルロス(イメージフォーラム)→メリエスの素晴らしき映画魔術&月世界旅行(イメージフォーラム)→リヴィッド(17日。シアターN)→ヒドゥンフェイス(えぬ)→ウェイバック 脱出6500km(シネパトス)とみまして、籠の中の乙女はある夫婦が、生んだ子供たちをいっさい外界に出さず・外部情報に触れさせることすらさせずに育ててきてる話なんですが、パンフのp.2に書いてある粗筋には『外の世界の汚らわしい影響から守るために、両親が子供たちを家の中から出さずに育ててきたのだ。』てあるんだけど、あれは子供のためじゃなくてお父さんが絶対権力者として振る舞いたいがゆえにあの家庭状況をつくりあげてるふうにみえたけどな。「自分が吹き込んだ嘘を信じ込んでる相手を観察する人」には少なからず他者の心を操って優越感を得る(痛めつけられてると思わせずに痛めつける)サディズムがあって、それが軽いシャレで済む程度のもんならイタズラつーことで笑って済むけど、真相を教える気も学ぶ方法も与えないってのは詐欺とか監禁といったシャレにならない立派な犯罪行為につながるわけで。その後者のほうを自分の子供に生涯をかけて仕掛け続けるってのは自分のサディズムを満たすのが優先で、子供はそのための道具にしか思ってないってことじゃん。そもそもマジに子供のためを思う親だったら、自分の子が「バカな嘘をそのまま信じ込んで生き続けて成人してしまった」(=社会と関わる事ができないほど深刻な白痴)状態に耐えられないと思うし。籠の中の乙女のあのお父さんは外の世界でいろんな辱めに遭ってきて、もう男としての誇りを満たせる場が家庭内しかなくなって、しかも子供が成長していろんな知恵つけてきたらその家庭内でも誇りをズタズタにされてしまうおそれがあるのを見越してあのような歪んだ家庭帝国をつくりあげる決心をしたんじゃないのかなーと思った。なんてゆーかさー…結婚して家庭にはいった男性がおとうさんになってから、家の人々が集まる食卓とか団欒の際に自分が話に入れないでいるとなにげなく機嫌が悪くなるよね?特に父親だけが入れない話に花が咲いてる中とか。あとなんつーか、食事中に流れてるテレビ番組の話題で盛り上がりすぎててだまりこんでた父親が突然番組変えたりしませんか。でも父親が終始会話のなかにはいってるとゴキゲンでいろいろ円滑にいくっていう。「心地よい家庭をつくる」のはお父さんという存在に対してちょっとした気づかいをうまくできるかどうかにかかってるのカナーと思う。頭ごなしに否定とかしてるとお父さんの居場所がなくなってしまう→お父さんやさぐれる→お母さんストレス→家庭内不和、とかになりやすいんじゃないのかな。うまくいってるご家庭のお母さんはそこらへんのさりげない気づかいがなんとなくできてるのかもしらん。なんとなく寒々しいご家庭のお母さんや娘さんは、お父さんを頭ごなしにディスったりないがしろにしたりなんてことを平気でくりかえしていはしないか。それではうまくいくもんもいかなくなってしまうやも。そういう観点で籠の中の乙女をみてると、あのうちのお父さんは家庭内で交わされる「話」の中心にいつでも必ずいるんだよね。家庭内を支配する法をつくりだしてる絶対権力者なんだからあたりまえなんだけども、あれはないがしろにされ続けた男のヒトからすると楽園のような光景なんじゃなかろうか。でもあの家庭内を支配してるあからさまな嘘は幼い子供であれば何の問題もなく鵜呑みにできてたんだろうけど、思春期もだいぶ過ぎて脳みそのシワも増えてきたらこまかい設定についての違和感について考えずにいれなくなるよなぁ。お父さんは息子の性欲発散のためにさすがに家族でさすわけにもいかんので、外部から色々言い聞かせた娼婦を呼んで相手をさしてるんですけども、その娼婦さんがたまたま持ってた映画のビデオを娘のひとりがみつけてしまって、娘は半ば娼婦さんを脅迫する形でその映画のビデオを入手して鑑賞してしまって、それからようやく家庭外に大変魅力的な世界がある、ということを知って以降アグレッシヴに外界へ出ようとしはじめるわけです。その映画のビデオというのがロッキーとジョーズだったらしくて、セリフ完コピしてしきりにマネするんですよね。でもそのビデオがお父さんにみつかって、お父さんはそのビデオ2本を片手にテープでぐるぐる巻きにくっつけて、ビデオみた娘を血が出るほどぶん殴るの。そのうえそのビデオ持ってた娼婦の家までいって、娼婦をデッキで半殺しにすんの。お父さん、もうだいぶ壊れてるんだなって思った。こんな嘘家庭を続けられる時点で十分壊れてるけど、女に容赦なく暴力をふるうところからしてもうなんか中身が殺人鬼レベルに壊れてる。このあとこの殴られた娘さんは家庭から外界にでる儀式をしはじめるんですけど、前々からお父さんとお母さんはなぜか「家をでるときは犬歯が抜けるとき」という決め事を子供たちに吹聴しつづけてるんですよね。なぜあの決め事を吹聴する必要があったんですかね?たとえば「死体になってもここから出ることはできない」風な「法」を吹き込むこともできたはずだけど、あえて身体欠損(あの場合は老いを意味したつもりで言ってたんだろうけど)を通過儀礼とする「法」を伝えることをえらんだってのは、外界に出るという一縷の望みをガス抜き的に与えることがどうしても必要だと思わされた出来事でもあったのかしら。ぜんたい悪魔のいけにえのヒューイット一家のもうちょっとキレイなバージョンとゆうか。外界を完全に遮断した家庭内というのはひとつの独自文化を形成してしまってて、娘ふたりが親の結婚記念日にみせる踊りが痙攣してるみたいなヘンな踊りだったりすんですよね。その踊り中に外界に逃げ出す気持ちを抱えてるほうの娘だけがむちゃくちゃに踊り狂うけど、あれ土人さんが戦前夜にみせる神懸かり的な踊りみたいにみえてしまった。ビジュアルは現代家庭なのに、なんか原始人をみてるみたいなかんじだった。映画ビデオをみてない息子と娘は外界にいく気持ちなんてまったくなくて、イシグロの「わたしを離さないで」で描かれてた従順極まりないクローンたちっぽくみえた。さいごは娘のひとりが長年吹き込まれつづけた「外界にでるため」の身体欠損のための作業を実行するんですけど、あの暴力的な自傷作業をも厭わないほど外へでたい気持ちが強烈なんだなと思った。土人さんの命がけの通過儀礼と同じだった。
ウェイバックは第二次大戦時にソ連軍によってシベリアの矯正労働収容所送りにされたポーランド兵の主人公が、同じ収容所にいたロシア人やアメリカ人といっしょに収容所から脱走した実話を元にした話だそうですけど、収容所の追手から逃げきるにはソ連支配下でない国にいかなきゃならなくて、当時モンゴル内のあちこちがソ連支配下になってたもんでしかたなく歩きに歩きつづけて最終的にゴビ砂漠超えたあとヒマラヤ超えてインドまで徒歩でいくんですよね。そもそも収容所では栄養失調状態での重労働を課されていて、そのなかで集めるとなると装備も食糧も最低限しかない状態で脱走するほかなかったもんで、湖や川にたどりつくまでがもういちいち地獄なんですよ。この地獄脱走行の主要メンツが男が6人くらいと後に少女が加わるんですけど、わけあって収容所にいれられていたアメリカ人技術者のエドハリスと、元からギャング的な世界で生きてきたと思しきロシア人のコリンファレルの役どころが面白かった。特に後者、生きぬくためなら人命など屁とも思わない冷血漢なわりに熱心な愛国者でもあって、胸元にレーニンとスターリンの顔が並んだでっかい刺青をいれてるんですよね。んでポーランド人がロシアのことちゃかしたりするとマジギレすんの。なんでこんなロシア愛に満ちた人間がシベリアの収容所にいれられてんだろうか。まあふつうに犯罪者だからなんだろうけど。収容所でも政治犯よかずっと大目に見られてたとかやってたしな。生き抜くためには嘘などいとわないダーティさを見抜くところがなんか自然だった。コリンファレルは脱走行のメンツと途中で別れてしまうんですけど、なぜかというとコリンファレルはゴリゴリの愛国者なのでロシアから出たくないというのと、あと長いこと刑務所暮らしだったから外の世界にいってもどうやって生きていけばいいのかわからないから、と自嘲気味に笑ってひとり別のほうへ歩いていってしまうんですよね。その分岐点より先はゴビ砂漠とヒマラヤがある=もっとヒドい地獄になるということを知ってのことかもしらんけども、何かから逃れてまったく新しいところへいくとなったときに、それまでの自分の生き方をも変えてまでいくのか、それとも変えないのか、そういうことを全部突きつけられるのだなと思った。脱走行メンツはちょっと体力がないと死んでしまうし、たいした装備も食糧もないまま、砂漠の強烈な日射しで皮膚が火傷のようになるし、脱水症状のまま両足が倍くらい腫れ上がるまで歩いても安住の地にたどりつけなくて気力がどんどん萎えてくんですね。もうだめだから、置いていってくれといって動かなくなってしまう。でも主人公は見捨てないし諦めない。あの主人公は期せずして探検や登山に於けるリーダーにふさわしい素質を備えていたということなんだろうか。ぜんたい飢餓状態をくりかえしながらインドまで歩き続けていってしまうとこをみて、なんていうか冒険をやりとげるに必要なのは潤沢な装備とかよりもまず生への執着がなによりも大事なんだなーと思った。執着を捨てた者からどんどん死んでってたので。歩いていった先にある生を強烈に望む思いがなければたどりつくことができない。どんなに豊富なモノを持っても。なにしろ思わぬエドハリス物件だったのがうれしかったので満足。そういえばシベリアの収容所を脱走した直後に凄まじい猛吹雪に見舞われて、このままでは凍死するってんでとっさに木の皮を剥いで仮面をつくって顔にかぶるところがおもしろかった。装飾としてでなく、純粋に実用にせまられてつくったああいう仮面はじめてみた。あそうそう、あと主人公が絵を描くヒトなんですけど、その絵が収容所や地獄の脱出行のなかでの唯一の心の慰めになる的な場面がたびたび出てきてじーんとした。戦時下の捕虜収容所で描かれた絵ってわりと残ってるんだよな。キツイ束縛下で心をつなぎとめるもんて、突き詰めるとそのヒトのもってる一芸しかないんですよね。絵や歌といった。
カルロスはへんに時間があまったのでついでで。なんか3部作のいちばん最後のやつということでトシくってきた過激派たちがだんだんと追い詰められてお縄になってた。前2作みてないんでこまかいことはわからんけど、あの主人公は社会主義がどうこう言いいつつも結局おんな好きでいちいち怒鳴るガハハ親父でしかないなーと思った。最後に主人公の奥さん本人の写真がでてたけど、演じてる女優さんよりずっと美人ですごい。あんな美人さしおいて浮気してふんぞりかえってんなよカルロス。トシくって奥さんに子供ができたんで、安住の地をもとめようと色んな国にいくんですけど、それまでにさんざん凄惨事件を繰り返したお尋ね者すぎるんで、どこの国でも入国を拒否されるんですね。彼がいると国自体が敵視されかねないらしくて。最終的にカルロスを鉄砲玉かなんかで安易に利用しようとか思ってた中東の某国(ちがうか。アフリカのどっかだっけ。忘れた)に身を寄せるんですけど、結局もとから追ってたフランスのヒトがおとしまえつけにくるという。大事件さんざんおこしといて老後は安穏と暮らそうなんてそうは問屋が卸さないよなぁ。なんか見通し甘いよなカルロス。あのテのテロやる自称思想家は新しいもんをつくりだせない向きばっかしなんだよな。マンデラさんとかカストロ以外は。
ヒドゥンフェイスはささいなことでケンカしたカッポーの女のほうが、ちょっとこらしめてやろうとばかりに彼氏宅の古い隠し部屋に身を潜めて彼氏を観察しだすんですけど、鍵もって入るの忘れてさあたいへん、ていうスペインの映画。出られなくなる隠し部屋はかつてナチの戦犯が身を潜めてた部屋らしくて、古いナチの制服とか腐った缶詰とかいろいろでてきます。彼氏のほうは突然彼女がいなくなって傷心のあまりにバーの女(ペラ乳)と付き合いだすんですが、このバーの女が隠し部屋に元カノがいることに気づいたのに助けることなく隠し部屋と通ずる鏡を見ながらニヤリ…みたいになるのだった。もっとひどいことになればいいのに。ヒドゥンフェイスのあとにスクワッドもみる予定で整理券もとってあったんだけど、メシくってたら上映時間から15分もたってたんで断念した。でもえぬに貢いだからいい。
リヴィッドはなんかうぐいす祥子さんが描きそうな哀愁とブキミさのまじりあった吸血少女譚だった。後半がよいけど前半がふつうすぎてつまらんな。屋敷女の…てとこで期待しすぎた。もっと突き詰めていいのよ。あの人形ぽくみえた子が実は生きてるてのがよかった。
メリエスのはメリエスというヒトのつくった作品についてと月世界旅行の彩色版フィルムを再生さすまでのドキュメンタリーと、その再生させたフィルムの映像をみた。なんか映画のフィルムって時間がたつと劣化して固形物になってしまうのね。でてきた月世界旅行はかろうじてフィルムの形をたもってて、有志の方が毎日ちょっとずつちょっとずつぴピリピリはがしてつなぎあわせて、デジタル化して修正してからようやく映像でみれるようになったらしい。カメラワークとかいっさいなしで、とにかく1画面中で動きまくれー!!的に登場人物が必ず縦横無尽にワヤワヤ蠢いてるのがたのしげでよかった。月世界に降り立った紳士たち、なぜか月原始人とおぼしきモノをみるやいなや攻撃しはじめて野蛮だった。異星人が出てくるとなぜたちまち生存競争モノとか秘境探検モノに陥るのか。フレンチ映画が野暮な説明いれずにどんどんすすむのってメリエスのころからなんだなーとぼんやり思った。
鋤田正義は1960〜70年代に撮られたニューヨークの街中の写真とかみてると、日常風景のなかに潜む異形を捉えた的なモノが多いんで、平凡さに囲まれたなかの異形の存在感を浮き彫りにしてたのしむふうなわかりやすい撮り方をまんま歌手や芸能人にも適用してるスタイルですけど、被写体の歌手のヒトが派手な装いをしてたり大仰なポージングしててもちゃんとそのヒトらしいんだよな。俳優が自分とはぜんぜんちがうモノを演じてるところを撮ってあるところでも、なんていうかその人らしさはちゃんとあるっつーかさ。嘘をついてもそのヒトらしいっつーの?個性ってなんだろうね。自分自身では面白いと思えないところもちゃんと個性だよってことなんだろうか。自分は自分ではみえなくて、いちばんおもしろいところもいつ出るかわからんということか。