不条理を許さない気持ちこそが銭ゲバ的冷血を押し進めたんだろうね

『直感は経験の積み重ねから生まれてくるものである場合は、得てして「正しい」ものです。
ですが、それは言語化できません。
説明できないものを笑った若造は結局死んでしまうのですが、子供心に、「人生の先輩がダメと言ったことを最初からバカにしてはいけないんだ」ということ、そして「なんだかよくわからないが危険だということを察知できる直感を養う、ということが、生きていく上で必須であること」が刷り込まれたように思います。
(「あれほど鬼刃が欠けたことを言うてはならんと言ってあったのに…」オヤジ木こりさん、かっけー!!)
まあそのころから単にオヤジ好きだったのかもしれませんが…。

最近はまわりの大人がさっさとバリアを張ってしまって、子どもに怖い話や悲しい話を見せたり聞かせたりすることがあまりないようなのですが、自分がこれから生きようとする世界には、おそろしいもの、こわいもの、悲しいものも存在するのだということは、子どものころから少しは知っておいた方がいいように思います。

そういう「世界の負の面」を隠してしまうのではなくて、そういうこともあるよ、と。
それはこのベテラン木こりさんのように、生き延びるために必要な「直感」、邪悪なものや危険を回避するために生き物として必要な能力を養うということです。
「牛鬼」のように「人間の理非」が通用しない相手と出くわしたときも、自分の身を守れるということです。

そして、だけど、いやだからこそ、美しいもの、心安らぐもの、楽しいものを見たり感じたりしたときに、それがどれほど尊いもの、大切にしなければならないものであるのかということが心からわかるのではないかなあと思ったりします。』
・上記『』内はここのです。「正義の味方が悪者をやっつけました」「お姫様と結婚しました」系のメデタシメデタシで終わる結末の話を子供向けでやってばっかりいると「子供だまし」と見なされて絵本や児童書ていうジャンル全体まで見下されがちになるんだけども、不条理をちゃんと描いてるモノはバカにされることなく、どんなに年をくってもずうっと覚えてて、あれはなんだったんだろう、て大人になってもまだ刺さり続けるという絶大な影響力を持ってるんですよね。この世に多々ある「不条理さの存在」を伝える、てことの利益感覚は目にはみえづらいんだけども、それをより多く知ってる子は不可解さに対する免疫があって、ゆくゆくは多面的に物事をみるためのちからにつながってくんじゃないのかなと思う。いろんな状況下にあるヒトの思いを勘案してあげたり、ものすごく複雑とみえる出来事でも意外な角度から考えてみることができたり、そういうことが臨機応変にできるヒトになりやすいんじゃないのかな。それができる子が増えてくことによって怒るまえによく考えられるヒトが増えてって、思慮深い社会ができてく契機につながってくような気がする。誰からも非難されないように、穏便に、穏便に…てビクつきながら児童書をつくる人がよく使う勧善懲悪だとか恋愛要素だとかの予定調和話てのは、効率良く儲けるためでしかないんだよな。「伝えるため」じゃないんだよ。出版側が儲けるためでしかないの。そりゃ見下されもするわな。本来的におとぎ話も絵本もバカにされるようなジャンルじゃないのにさ。ランボーだとかプレデターだとかがぶっちぎりに1作目が面白いのは、戦いや暴力のみを真摯に描いているからで、続編はヘンに恋愛要素みたいなよけいなもんを突っ込んであるから当たり前だけど1作目の熱はぜんぜんないわけです。おとぎ話もそれで、笑いなら笑い、エロならエロ(このテは神話にもあるね)、暴力なら暴力で一貫した面白さが本来的にあったのに、効率良く儲ける目的の人からするとそのキモが全部ジャマだから削っちまったわけですな。挽肉にしてやりたい。下半身ネタも不条理も、子供なりにちゃんと楽しんでるんですよ。それを大人の勝手な効率観点でみせなくしちまう、てのは百害あって一利無しです。不条理てのはショック描写の一種で、そこで強烈な疑問を持つと考えずにいられんのですよ。自分なりに理解しようとして頭を使い出す。なかにはなにも考えずにスルーする子もいるとは思うけど、そうでない子だってたくさんいるはず。これ、なに!て思わすのが昔話の役目であって、その疑問をもたす部分を削ったら昔話をよます意味がないよ。なんか…リメイクされて放映してる日本昔ばなしをチラッとみたけど(なんの話かは忘れた)、その不条理部分よかアクション部分だけが延々と引き延ばされてて、いや、そこじゃないでしょ!て腹が立った。そんだったら昔やってたのをそのまま流したほうがいい。昔話のキモはアクション部分じゃないの。たとえば悪戯カッパを暴行して雨乞いの人身御供に出した、てくだりを淡々と流すほうが100倍ショックだし、それこそが昔話のキモなの。リメイク版日本昔ばなしの作り手はそこをまったくわかっていない。そこを削るのならリメイクなんかする意味がないんだよ。昔つくったのを淡々と放映するほうが100%教育に良いよ。最近これのCMで「いい話がいっぱい。」とかやってんだが、その「いい話」てのはよもや効率優先の勧善懲悪話を指してるのではあるまいな。そうであればユーキャンて企業には昔話における真の教育効果なぞひとつもわかっちゃいないバカの群ればっかり揃ってる、てことだろう。教育的側面といえばさーヤクザの件のとき書き忘れたんだけども、テキ屋なんかでチビッコがヤクザの人と触れ合いながら、こういうふうにしか生きられないヒトたちもいるんだな、てしぜんと学んでいると、それをむやみやたらと切り捨てるような冷酷な心にはなりづらくなるんじゃないのかなとも思う。ヤクザは市民にとりついて悪さしてるヒトたちなんだけどさ…。そうでないと生きられない人てのが必ず出てくんだよ。排除条例なんてあるけど、九州なんていまだにちゃんといるじゃん。きっちりなくすなんてムリなんだよ。ルールつくって共存、てのが大事なのにさ。切り捨てることのできないやっかいな部分への理解というのかな。効率優先の象徴である「愛」や「癒し」の影の部分、てのがこの不条理部分にあたるんだろうな。なんか、この不条理と言われるところのほうがぜんぜん豊穣だよね。単純ではない複雑さがあるから。だからこそ70年代あたりの映画監督はここらへんを好んで映画にしたんじゃなかろうか。不条理話に親しんでると、それを内包できる度量を培っていくことができるようになるんじゃないかと思う。効率とは無縁の世界観が存在する、ていうのはすごくショックなことなんだよね。常識や効率からかけ離れてるってのをただひたすら淡々と語れば十分ショックなのに、そこに仰々しい演出がついてるとそのショックがやわらいじゃうの。昔話のショックを伝えるによけいな演出なんかジャマなんだよ。予定調和にいかないのが現実なのに、そんなのばっかやってたらバカにされるに決まってんじゃねえか。おいらの大好きな絵本や昔話が銭ゲバに踏み荒らされて誤解されて見下されんのにガマンならねえんだよ。大人にとってのいちばん面白いとこは子供も同じなはずなのに、効率優先の銭ゲバ人間が「大人と子供が楽しむ部分はぜんぜん別モノ」て勝手に決めつけてるのがすげえヤだ。
臭いものにフタしてたら腐っちゃった件じゃないけどさ…前に付き合ってた男が江戸時代にあった「善意を売る」露店についてたびたび話してて、それはカゴの中の雀を1回いくらで逃がしてやる、て商売で、お客さんが1回分お金払うと露天商がカゴから1匹雀を逃がしてやってから「いいことをしなすったねえ」て言うんですって。客側は善行に満足して帰ってくんですけど、当の雀は実は露天商に飼いならされてて、外にでてもまた戻ってくるんだそう。これって要するにキャバクラだとかと同じく「満足させてやる」前提の商売であって、善意てのが快楽につながってる、てのをちゃんと自覚してんですよね。おそらく客のほうもあの雀が飼いならされてるかどうかわかってるんじゃないかと思う。双方の暗黙の了承のうえでやりとりされるからこそ雀逃がし露店はなんか健全なカンジがすんだよな。ナニが言いたいかというと、善意が快楽につながってる、てのを昨今の市井がまったく自覚してなかったのが佐村河内にうまいこと騙されちゃった原因なんじゃないのか。お涙頂戴に普段からナチュラルに騙されすぎていて、それをイチ商売手法としての仕組みとして自覚してるヒトがあまりに少なすぎるっつーかお人好しが行きすぎて全員が詐欺の片棒かついじゃったふうな感。なんつーかさ…障害者は自発的に笑いをものする小人プロレス的な稼ぎかたこそが健全なのであって、お涙頂戴でばっかり仕事してると市井がどんどんそのテの視点をもてなくなって、オレオレ詐欺にひっかかる超絶お人好しになりかわっていってしまうんじゃなかろうか。そもそもさ、批評してはならないものなんてこの世にはないのと同様に、笑っちゃいけないモノなんてこの世にはないんですよ。障害者を笑いの対象にしてはいけない、みたいな暗黙の了解を忠実に守ってたからこそ全員詐欺師になりさがったんだし。
強さの誇示に躍起になる心根はつきつめるとちいさいちんこの人が強姦して不安感をまぎらわすノリにつながってしまうと思うよ(ちなみに子供を痛めつける事件が多発するてことは子供相手にしか発散できない惨めな状況に置かれてる男がたくさんいるってことだろうね…)。ちゅーごくはほんとは柔軟で豊穣なお国柄なはずなのになー。権力の人は正しいことをしてるつーんなら暴露されてイチイチあたふたしてんじゃないよ。暴露されてマズイようなことをしないでいれば慌てることもないじゃないですか。都も国もケツの穴の小ささ争いじゃなく、懐深いとこをみせるくらい余裕をもってくれればいいんだがな。あとさ、強情っぱりに陥ってる権力者を反知性主義てレッテル貼りしちゃうのは相手の怪物視につながるんじゃなかろうか。権力側と市井側がお互いを「理解不能の怪物」とみなしはじめると、不信感が広がって相手を縛るふうな決め事にすがりがちになりそう。なんか…エロ漫画弾圧されかかってたときに色んなとこに投書してみたんだけど、政治の人は文面が偏ってさえいなければちゃんと読んでくれるっぽいよ。一方的に責める調子とかのはおそらくろくに読んでもくれないかもしらんけど。ちゃんとネタ元提示してデータ出しつつ「あの取り決めはやめたほうがいい」「こんなふうにしたらどうか」的な手紙を読みやすい文字で(おいらはPCのでプリントしたけど)書いたのを送ると一応よんでくれるっぽい。政治のことでマジに危機感をもってるならそうやって投書すればいいと思うけど、文筆業のヒトビトはそこらへんをネタに儲けなきゃならんからそうもいかんですわね。おかねもらって媒体に書く文章て、個人的に理解してもらおうと思って無償で書く内容とはちがって万人向けの「煽り」が入ってるもんだから、後者にあるような「語りかけ」にある真摯さが抜けてて、「読んでほしい」と思っている相手には届きやすいようで実際には届かないでしょうね。