名付けたくなったときに自覚が働くようにするといいんだけど

アンネの日記破られ事件ついでに出てきた『アンネの日記』偽書説への反論でunspiritualizedさんてヒトがホロコースト(てアウシュヴィッツでの犠牲者のことだよな?)600万人殺された説について僕はニューヨークのユダヤ博物館でユダヤ人の人口について学芸員と話したことありますが、こんな数字はまったく出てきませんでしたて書いてるんで検索してみたら『"ホロコースト" "600万人"』で450,000件でるのな。あとから数を修正した機関もわりとあるとかなんとか。てきとうだなー。ちなみに収容所所長だった男の手記の解説には「犠牲者数は250万人でも多め」とされてる(おいらが持ってるのは2003年10刷)て出てるよ。このヘスの本はすごいよ。どんな凄惨だろうとその時代ごとの常識であればヒトは従ってしまう、ていう真実が書かれてて。超おススめ。特に公務員さんは読んどくと吉。人殺しって精神的にクるけど、仕事だからやらなきゃ!アタシ、チョー頑張る!!つって明るく前向きに1日1,000人くらい殺してた仕事中毒人間のありさまが書かれていますよ。数の件にもどしますが、南京での戦時死傷者数の件で「東京大空襲でも死傷者10万人だったのに歩兵で30万人殺したってのはおかしいだろ」てのが出てたけど、アレと同じ誇張がナチ関連でも使われてるんだな。南京の件は中国兵が市民にまぎれこんで逃げたのを追いこんでたら結果的に死傷者が多くなってしまった(便衣兵については真逆のもあるな)、て説を(社長から)聞いたことがあって、そうだとしても5万人前後じゃないかと思うが。ちなみにウィキペディアの死亡者数欄「600万人説に関する疑義」に『ニュルンベルク裁判では被害者数は600万人と認定された。アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館では2013年現在も被害者数は600万人としている』(その欄のいちばん下に出てる『ソ連のグラグで殺された反体制派やキリスト教徒の数に比べればホロコーストは小規模である。』てのひでえな)て出てるんスけど、件の施設説明には270万人て出てるよ(日本語サイトではなぜか600万人てされてるね)。リンクしたtogetterでunspiritualizedさんが出してるリチャードなんたらさん(このヒトガス室全否定してるんだが、ヘスの手記本p.293あたりから後半までずうっとガス室でどう殺したか、てのが詳細に書いてありますよ)はそこらへんの誇張みてるうちに怖くなっちまって、ラブクラフトが駆られてたっつー黄禍論的なとこにいってぐるぐるしてんじゃねーのかな。あくまで情報修正だけに徹してればまだしも、嘘や誇張を混ぜ込んだ情報を流布した人種をまるごと悪者扱いしてるのがな…。それやってると日本にもある六芒星みたいなユダヤ文化に似通ったもんを消し去る、て流れになっちゃって、廃仏毀釈のときに仏像を酷く破壊してまわったのと同じことになっちまうんだよ。それって善行でもなんでもない無意味な破壊であって、ただ「傷」が残るだけなの。仏像ばっかりひどく破壊した傷が。寺社仏閣まわるたびにそういうのがあって、心が痛むんだよ。おなかの部分を真一文字に切り裂いたようなのとか、もういかにも憎悪をぶつけたふうな傷あとなの。浅草あたりの庚申塔にけっこうあるんだよ。でも、その傷がのこってるおかげでその行為が社会にとって善きものではなかった、てのがはっきりとわかるんだよな…。怨霊と呼ばれる存在と関わって思ったんだけど、そういうもんから受けた傷てのは負わせた相手と深く関わるための入り口になってくんだよね。なぜこんなふうにしたんだろう、相手はどういう道をたどってこうなってしまったんだろう、て考えるための糸口というかね。呪われたり傷つけたり、ということがこれまでは恐怖をもってしか語られてこなかったけれど、それは深く関わるためには必要不可欠なことであって、揺るぎない関係を築くための1歩なのかもしらん。なんつーか、傷を負わせた人と負った人が互いに理解しようとしあうことではじめてほんとの意味で平穏が訪れるんじゃなかろうか。ガス室の犠牲者を600万人、南京の戦時死傷者を30万人と言いはじめたヒトたちは、それこそナチスユダヤ人に対して見なしてた冷酷な観点をまま受け継いだかたちで相手を憎悪してたんでしょ。傷を負わせたナチス日本兵を「悪鬼なので殺さねばならない」と思い込んでいたからこそ、ちょっとでも多く補償を受けたくて派手な数字を流布させちまったんでしょ。でも、その精神を世界中に流布させているかぎり、平穏は訪れないんじゃないのか。ナチス日本兵の子孫が滅んでもおそらくそう言い続ける気なんでしょ。傷を負わされた側は善人なのだと永久に言い続けなきゃいけないんでしょ。それによって「悪鬼」からお金をせびるために。善悪どっちも持ってるのが人間であって、片側1つだけの人なんてありえないのに「悪者」「善人」て名付けをした時点から物事はどんどんこじれてくんじゃなかろうか。傷を負わせた人を悪者扱いして追放する、てのを続けてるかぎり本当の意味での平和には辿り着けないかんじがする。やっちまった人を吊るし上げる、てのは怪物視が原点になっていて、その視点をもとにした言動を是としてるとこれまでに繰り返されてきた非道を平気でやらかしそうでな…。嘘を流布しようとした人の心根とか、どうしてそうなるに至ったのか、てのを勘案する心を持つ、てのがいちばん大事だし、そうならないように気をつけるにはどうしたらいいか、てのを相手といっしょになって考えてく、てのがいちばん良い対処法だと思うんだけど。上記リンクしたリチャードなんたらさんとこも顕著なんだが、ギャーユダヤ怖いー!!ていう雰囲気しか感じないんだよね。間違った情報を正したい、て目的だけならそうはならないはずなのに、なんだかリチャードなんたらさんとこからはユ、ユダヤ追い出さなきゃー!!的なとこに直結させたくてやってるふうなニオイがふんぷんでな…(ここに『イエス・キリストを「十字架刑にせよ」、とピラトの法廷前で叫んだ者たちがユダヤ人であった。』て書いてあるんスけど、まだゆるしてあげねえの?)。リチャードなんたらさんだけじゃなく、歴史修正主義だとかっていうレッテル貼りする人も同じなんだけど、そういうふうに名づけて呼んでる相手とは歩みよる気がないように見受けられるんだよね。そうしてカテゴリー分けすることでよけいに見下したり、遠ざけてしまってるふうにみえるんだけど。ガス室の犠牲者数についても純粋に情報のみを精査する気持ちがあるのであれば、ココはちがうね、ココは合ってるね、て淡々と指摘すれば済むはずなのに、それをせずに「歴史修正主義者」ていきなり言い始めるノリがちょっとおかしいんだよね。ヤンキーのポエム、ていう名付けをして見下してる人がいたけど、「反知性主義」だとか「歴史修正主義」ていう名付けもそれとまるで同じかんじ。そうして特定の呼び名でカテゴリー分けしたヒトたちを「自分とはまったく異質の理解不能で低俗な人間」て見なして安心したいんだろうか。リチャードなんたらさんのやってるユダヤ怖いー!!とさして変わらないつーかね。知識エリートの人て自分のバカにしてるものとまったく同じことをしてるのに気づいてないのかなー、よっぽど反論されるのが怖いのかなーと思ってしまう。なんか…印象派が出てきたときに当時の画壇がめちゃくちゃバカにしたのとか、年輩者がゲームや漫画を子供のもんだと見下してたアレとまるで同じで、旧弊に囚われたもんが新しいモノを忌避してるのと同じにみえてくるし。名づけることで全部いっしょくたに見下してしまいたい、て欲求がそこにはあるんじゃないのか。個人主義を尊ぶ人は「見下したい相手に名付けをして共通言語的に使う」ていう一体感欲求の満たしかたをするんだね。神仏は徒党を組まない、て点からすると集団ごとに名付けをしはじめてる時点でもうおかしい、てのがまる見えでねえ。もっというと神仏はほんとは名前すらいらない、てノリらしいし。
アンネの日記の件にもどしますけど、創作物を破損したりするのは言論弾圧につながるんで賛同できないよ。どんなつくりものもこの世にあっていいんだよ。もっともらしい理由をつけて「これだけは削除していい」とか、そういう論理をまかり通したのがこれまでの混乱の原因だったんだろ。あとアンネの日記から性や憎悪表現を削った人はバカじゃなかろうか。アンネの日記破った人と日記内容から勝手に気に入らない表現削った人は同レベルのバカだ。
日本を「児童ポルノ天国」と呼んでいる人は日本のナニを見てそう言ってるんですかね。もしかしてジャニーズだとかAKBなんかの若年アイドルが半裸で歌い踊ってるのをみてそう言ってるんじゃないのカナー。日本以外の国て日本よか性犯罪や子供の誘拐がめちゃくちゃ多いんですけどねえ。その国の人たちから児童ポルノ天国呼ばわりされる筋合いはないですよー。「児童ポルノ」て言われてパッと思いつくのが「誘拐した子に無理やり売春さす」的な犯罪行為ですけど、実際には高校生がカネ目当てに大人とセックスすることだとか、家庭内での虐待(親が芸能事務所に子供突っ込むのはそれに含まれないんすかね)だとか、幼い子を拉致監禁することなんかがいっしょくたにこの呼び名を冠した法律に含まれてるんですよねえ。それぞれがまったく異なる対処でなければ改善しないようなことなのに、どうして全部同じ呼び名にしたのカナー?もしかして、それぞれの案件に個別に向き合わせないようにして、改善させないようにしたいって本音があるんじゃないのカナー?異なる事案をひとまとめにして特定のイメージしか浮かばないような呼び名に含ませた時点で「犯罪でないモノ(創作物)」までをも犯罪視させてく土壌を巷につくりあげよう、て魂胆があるのがミエミエなんですよねー。性から目を逸らさせる、創作物への弾圧政策を取り入れる、てのはこれまでさんざんやらかしてきたキリスト教者の失敗や蛮行をまま取り入れることになるんだよ。エロ漫画弾圧を善行として押し進めているのは今のところエクパット矯風会、アグネスが広告塔の日本ユニセフ、それに創価学会を母体する公明党(+そこらへんにせっつかれてると思しき平沢勝栄)なのだけど、彼らは欧米のキリスト者の失策を日本でも根付かせようとてるふうにしかみえないんよね。この団体に所属する人たちは全員が「神父が性欲をもてあまして信者の子を強姦しつづける」ことに目をつぶっていて、改善する気すらないってことでしょ。そんな性犯罪者発生装置的な体制を「善行」と掲げて日本にも根付かせようとしてんだぜ。その片棒をかつぐ警視庁てのはなんなんでしょうねえ。日本であまりに重犯罪が少なくってお巡りさんの威光をみせづらいから、より犯罪を増やしたくて推進してるのかしら。こういうのって国賊っていうんじゃないのかしらねー。児童ポルノ名目で創作物規制したいお巡りさんが紋所みたいに出すのが「児ポ創作物まで規制してくれないと性犯罪者をお縄にできない」て論理なんですけど、それってATFが「銃を規制してくれないと密売組織を摘発できない」て言ってるようなもので(基本的に「1発で死に至らしめる火器」を全面的に禁止にすれば、銃ももそれ持ってるだけで罪に問えることになるけどね。武器類で所持や売買が許可されるのはヌンチャクみたいな原始的なやつと、あとスタンガン的な気絶させられるのだけにする、ぐらいしたほうがいいと思う)、怠慢体質でいたいがための言い訳でしかないんだよね。おれたち捜査とかろくにできない無能だから甘っちょろい仕事でも評価されるような決め事つくってくれる?て言ってるのと同じなのよ。そんなことやってたらよけいに日本の警察の無能さが深刻化するだけじゃねえかよ。家庭内に於ける子供への性虐待の対処をしたいんであれば、義務教育だったら道徳の授業なんかで「こういうことをされたらココへ逃げ込みましょう」的なことを教えるべきだし、そもそもは性への興味がいちばん高まる10代には性教育をきっちり仕込むのが当たり前だよね。そういうのすっとばして全部「児童ポルノ」でくくって済ませてたら改善するモノもしにくくなるんじゃないんだろうか。規制に丸投げして済ます、てのは責任放棄であって、親となる人の道徳観念欠落を加速さすだけなんだよ。対処のむつかしいもんとの関わりを常に考えさす、てのは情操教育上ですごく大事だと思うが。エロ本にしろ刃物の扱いにしろ。いちいち責任を負うことから市民を離れさすようなデリケート人間増産にお上が加担したらいかんと思う。
なんつーかさ…上記に出したキリスト教系思想団体のヒトだけじゃなく、創作物で性を取り上げることを禁じるすべての国の権力者や宗教者、過激派、それに小児愛の性癖を持つ人、あんたがたの性癖だってすべてこの世にあっていいんですよ。存在してはいけない性癖などひとつもないし、禁じることなんて誰にもできないんだよ。ただ、非道を犯してはいけない、ということだけ。性のことで罰される必要があるとすれば、それは現実で相手の意思をないがしろにした非道を犯した際のみだ。すべての存在が祝福されて生まれているのであれば、性癖だって同じはず。それを知るのに最適なのが、漫画や映画やアニメ、ゲーム、小説、演劇といった創作物なんだよ。この世にはどんな性癖をもっているヒトがいるのかを国を越えて知ることができる。やってはいけないこと、道徳観念を「生まれついて持っている性癖や性質」にまで当てはめたらいけないよ。それは存在否定であって、人間性を踏みにじるに等しい蛮行だと思う。すべての性を創作物によって明らかにする体制こそが真に思慮深い社会を築く礎となるんだよ。なにを怖れて性に親しむ書き物を禁じているのかしらないけど、その恐怖は取り越し苦労ですよ。市井にとっては自己否定をしながら生きることを強いられる悪法でしかない。そもそも宗教なんて人間がつくったものなんだから、決め事をその都度変えていけばいいじゃんか。問題が噴出しっぱなしだってのに、変更しちゃならない理由ばっか列挙して古くさい決め事にしがみつき続けるのが善き事なんですか。あなたたちの時代遅れの観念は実害となって市井に現れているというのに。いいかげん人間否定を推進するような決め事を取りやめたらどうか。その取りやめは困難きわまる改革につながるであろうことは予想できるけれど、勇気をもって実行すべきだよ。キリスト精神て元はそういう困難をものともしない心根を推進してたんでしょ。あんたらはそこからずうっと目を逸らしてきたねえ。そろそろ肝据えて向き合ってみたらどうですか。その勇気を持てないかぎりは永久に生まれ変わることはできんだろうよ(ちなみに日本のクリスちゃんに対して今よかもっと規律をキツくしたら信者がよけい減るだろうね)。
いろいろカキましたけど、弾圧する者がいたからこそ、いかに創作物がたいせつなのかを知ることができた。逆にいえば、彼らがいなければここまで創作物の大事さを自覚することができなかったかもしれない。いてくれてありがとう。相手を理解しようとする気持ち、本音に向き合う勇気さえあれば、闇と光はいがみ合うことなくちゃんと共存できるんだな。あなたの本質をこちらが知るためには、それを表したモノをつくったり読んだりするのを許してくれる体制がどうしても必要なんですよ。