時の常識が排除したがるモノは忌避すればするほど増長するのだな

・料理ド素人は「定食屋のランチを完全再現する」を追求してくが吉よ。焼き魚定食だとかトンカツ定食だとか、それを誰が食べても美味しくつくれるようになったら立派な料理上手だよ。それでも料理のことでモメるとなると、作り手の好きなもんを相手にもむりやり押し付けようとしてるとかなのでは。夫婦だったら相手と自分双方が好きな味つけの料理だけ並べてればモメたりしないんじゃなかろうかね。料理て週イチしかやってないけど、家族内といえども1人1人の味覚上の好みがちがってるから、それを全員納得さすとなると大変なんよね。自分が好きでも家族のうちのひとりはそれが嫌いだったりするし。嫌いなもんが仮にメイン料理だったりしたらそのヒトはろくにメシも食えなくなって健康に障るわけですよ。そうなると全員が嫌いでないモノ、てのが大体浮かび上がってきて、そのうえで味付けの好みがまた各々でちがってるから、結局それぞれの「好きな料理」で重複してるもんだけが並ぶようになるんよね。これをすべて踏まえた上でさらに料理がうまくなる人てのは「口にいれるモノは全て美味しいモノでないと我慢ならない」レベルに食にめちゃくちゃ執着を持ってる人で、かならず味見をするんだよ。で、途中で美味しくない味ならば「自分の納得する美味しさ」になるまで味付けをなおしてくのだけども、味付けが薄すぎず濃すぎず、ちょうどいいポイントでピタッと「終わる」のがすごく大事なわけ。でも料理のセンスあんまない人てその「味付けちょうどいいポイント」の精査ぐあいがユルいもんだから、濃すぎたり薄すぎたりしちゃいがちなんだな。その味付け精査すらユルユルにしかこなせない人がなんだか既存の料理のアクロバティックなアレンジとかしはじめて伴侶さんに生ゴミ食わせてケンカになってる件がわりかしあるっぽいことをさっきノンストップ!で取り上げてたんだけども、料理のアレンジは料理の才能を生まれつき持ってる人ですら成功するかわからない超弩級に難しいアレなので、やめれ。音階すら把握できない人間がオーケストラの指揮するようなもんで、定食屋ランチの味付け再現すらこなせない人間がアレンジなんかしたって生ゴミにしかならんですよ。
・どんな業界のもんであろうと遊び手の気持ちに沿ったモノが名作たりうるてのは事実なんだけども、それが成功者だとか、時の常識で「勝者」側とされる人がうまくいったときに感じるであろう悦楽感だけ称揚するような表現で聞かされてばかりいると、その対極にある者たちはどうすればいいかわからない気持ちを強めちゃうんじゃなかろうか。特に紋切り型表現なんかで恋愛成就時の幸福感を祝福するような歌ばかり聞かされてる中で、だれかを「好き」になった結果としてのハッピーエンド的な「愛」が仮に得られない結末になってしまった際に、生きていてはいけないふうな焦燥感に襲われやすくなりがちなのでは。恋愛成就時の幸福感、てのはなにも歌だけじゃなく映画や漫画なんかでも描かれてるけども、歌での表現がそれらよりも抜きん出て強烈な影響を及ぼすことの理由として、音楽を構成するリズムだとか音てのが「胎内で聞いていた心音」に直結してるからなんじゃないのかとニラんでる。子供の安心感は生まれてからはじめて感じた心地よい感触に根ざしているらしいだけに。幼少期に培われた感覚てその後大人になってもずうっと変わらないくさいんだよね。昨日この番組で、大家族中のひとりの少年が、ひさしぶりに帰ってきたお姉ちゃんが気になりすぎるあまりについ蹴っちゃったりしたのを怒られてよけいにひねくれちゃってたんですけども、男の子て幼い時分なんかは特に、心にある強い思いを乱暴な言動でしか表せないくらい不器用な状態みたい。や…好きなモノに対するデータとか論理的な話ならばスラスラしゃべれるぽいんだが、こと自分のなかのモヤモヤについてはスラスラ表現とかできないふう。そのモヤモヤを解消するに、胎内心音に根ざした「歌」てのはすごく真向きな表現なんじゃないかと思うんだが、そのモヤモヤ部分を肯定してくれてたり、まんま代弁するような歌ならば解消に向かうはずなのだけども、モヤモヤと対極にあるような恋愛成就時の幸福感が濃縮された歌ばかり聞かされたら、じゃあそれが得られない俺はなんなの?いちゃいけない存在なの?てなって、巷で賞賛される「幸福」と対極にある存在に自分を貶めた張本人―好意を拒絶した相手―を殺さなくては、自分が存在していくことができない、みたいになったのが片思い相手に付きまとって殺すに至る人なんでは。なんつーか成就時の祝福感覚を表現した歌、てのは心身共に満たされてる人にとっては「善き歌」とされて心地よさを味わえるだろうけど、欠落を抱えたヒトにとっては「祝祭者から自分が排除される歌」にしか聞こえないんじゃなかろうか。つらい思いや大変な状況下にあるヒトにとって励ます歌なら元気づけられるかもしらんけど、成就時の幸福感をうたう歌は逆効果になりかねないつーね。それと最近よくテレビなんかで流れる祝福歌の歌詞内容て、誰の視点なのかが具体的に書かれてないことが多いんだよね。アメリカの歌でよくあるのは「私こんなヒドい経験したの(笑」みたいに、固有名詞を盛り込んで具体的に経験談を語るふうな内容の歌詞で、それだと聴き手側は「他者の経験」として客観視できるんだけども、祝福歌の歌詞内容で具体的な人物名がまったくない状態だと、聴き手は自分の状態と照らし合わせて比べてしまいがちになるんじゃないかな。愛や癒しの言葉がまま癒しになるとは限らない、てのを欧米の名曲つくるヒトたちはよくよくわかっていて、だからこそ根拠もなく漠然と愛を歌うみたいなてきとうな仕事をしたりしないんじゃなかろうか。二重三重に障害もってるヒトがそれ乗り越えて元気に過ごしてる話をみるだけでサイフのヒモがゆるんじゃうように、巷のヒトは本来的に苦難が深ければ深いほど心ゆさぶられるはずなんだよね。悲しみ恐怖だって快楽と同等の感情経験なわけですよ。成就が上で哀しみが下とかありえないの。かつては殺しの絡んだクソ重たい情念表現をさらりと静かに品良く歌う効果(=重い歌詞をまんま重たく歌うと聴き手はうんざりして耳ふさぎたくなっちゃうの法則からして、成就ソングを祝福感満載で歌うのは耳ざわりがよすぎるがゆえに危険なんですな)を盛り込んだりだとかいつの間にかなくなったものを情緒とともに思い出させるふうな高等技術でもってつくられてたのに、今ではそれがまったく使われなくなってしまったんだな。次世代音楽への継承がうまくいかなかったてことなんだろうか。いまだにポンニ人の一体感確認番組ヨイトマケの歌とかやるとツイッタで感動の嵐が巻き起こるじゃんか。しかし現実として土俗のリズムを下敷きにした音楽とか日本の民放なんかでは見向きもされない現状だしな…。土着のもんを切り捨ててたら真の固有音楽なんてできっこないのに。ポンニにはドロドロしたもんを透き通った声量でうたうお家芸があったんだが、いまや歌詞もメロディも今やファストフード状態で、即席に抱いた感情をさっさと捨てて乗り換えることしか考えられてないからな。もったいない精神とかナチュラルに大嘘ですね。10年も20年もかかって情を育むなんてツラくて出来ない、か(笑)とりあえず耳慣れない音にまず慣れさすとこからはじめないとならんのだろうか。その民謡にしかない快楽ポイントだけを抽出するとか。盆踊りにしても、もっと今ふうなのにしたらいかんのかなー。ジャマイカあたりのみてると継承するにレイヴ的なのでもかまわないんじゃないかと思うが。深田舎の過疎地帯の浜なんかで暴れるの解禁とかにしてさ。 重低音て太鼓と同じだし。踊るの禁じたお巡りさんてそういうの嫌いな人たちなんすかね。
ちなみにまど先生のうたのすごいとこは誰でも1発で覚えられるとこだと思う。童謡だからあたりまえだろ、て思うかもしらんけど、童謡つってもいっぱいあんのよ。そんなかでまど先生のつくったもんが突出してんの。少ない字数で全年齢状況の垣根を即乗り越える、てものすごいんだよ。